1937年5月20日のジョージ6世戴冠に伴う観艦式で、誰が足柄を『飢えた狼』と呼んだのか。
この艦の形と、「飢えた狼」についての背景知識
足柄の当時の状況については防衛研究所戦史部 第1戦史研究室所員、川井裕氏がノートとしています。
研究ノート 軍艦「足柄」の英国観艦式派遣及びドイツ訪問について(pdf) [archive]
(太字引用者)「足柄」は 1922(大正 11)年に締結されたワシントン海軍軍縮条約の排水量制限のもとで、平賀譲造船官の設計により建造された 10,000トン級の妙高型重巡洋艦 4隻のうちの1隻として 1929(昭和 4)年 8 月に就役し、1935(昭和 10)年2 月に第 1 次近代化改装工事を終えた比較的新しい艦であった31。また、同年 9 月に発生した第四艦隊事件により妙高型においても船体強度上の欠陥が問題とされて、「足柄」を含む同型艦 4 隻は 1936(昭和 11)年の初めに補強工事も実施されていた。妙高型は軍縮条約の制限によりつくり出されたもので、「条約型巡洋艦」あるいは「重巡洋艦」と呼ばれ、日本海軍では一等巡洋艦に類別されていた。妙高型は、「……高速発揮に際して機関の馬力をなるべく小さくするため、従来より長い船体とし、当然生ずる船体重量の増加を防ぐために、後端近くの乾舷を小さくし、中央部乾舷も必要最小として……艦の重心の低下をはかり、船幅を小さくする等の主要寸法上の考慮を払い、また船体長の増大による船体の撓み振動を防止するためには、極力縦通材に連続性を与えることとし……船殻重量は従来の巡洋艦に比べ一〇パーセント余りも軽くなった」ことをその特徴としていた。
また、英国において「足柄」は、その艦影から「飢えた狼」と評されたが、それは必ずしもその精悍さや優秀性を認められたからではなかった(石渡幸二『艦船夜話』(出版協同社、1984 年)112-113 頁)。
※艦船夜話が妥当かどうかはKousyoublogでも語られています
1936年の詩人の感想は足柄ではなく愛宕?
観艦式の前年、1936年5月16日に詩人ジャン・コクトー、喜劇王チャップリンが鹿島丸で神戸港に入港します。鋭い洞察力で日本人以上に日本を理解していたコクトーは相撲や歌舞伎を讃えたほかに、神戸港の軍艦を見てその姿を褒めていました。ただ、これが足柄についての話かどうかは下記書籍にはありませんでした。
コクトー、1936年の日本を歩く p.21-22,p.23
(太字引用者)神戸の港で目にした軍艦についてもこの詩人は「日本の軍艦が入港して居たが色といい形といい実に立派な堂々たるもので世界の何処の港に持っていっても日本の軍艦だとわかる特異性がある」(東京朝日新聞五月十九日付夕刊)という賞賛の言葉を残している。コクトーは別の機会にも日本について印象に残ったものを聞かれ、「日本の軍艦は素晴らしい、(中略)日本の軍艦はサムライの姿にそっくりだ、エレガントで秩序だっていて、しかも壮大な重力をもっている」(小松清「旅を賭けた詩人(一)訪日のコクトオと語る」、「読売新聞」五月二十一付朝刊)と答えているが、日本人に語られたこれらの言葉はおそらく半ば以上は本心からのものであったに違いない。第一次大戦では義勇兵として前線に赴いた経験もあるコクトーは必ずしも軍隊を嫌っていたわけではなかったし、フランスの軍港トゥーロンではお気に入りの軍艦や水兵のスケッチを繰り返し描いてもいるからである。
また、「集団(天皇)のための死」という観念はコクトーを強くとらえ、その後、東京で訪れた軍事博物館「遊就館」では人間魚雷があるはずだと言ってしきりに見たがり、案内役の堀口大學を困らせたともいう(『無限ジャン・コクトー特集号』昭和三十九年夏季号「座談会 ジャン・コクトーの世界」参照)。
どうやらコクトーが見たものは足柄ではなく愛宕のようです。
@lunaticmonster
コクトーの来日:5月16日朝・神戸着 22日横浜発 この間陸路
コクトー「神戸で見た軍艦が綺麗かった」(17日朝日新聞)
16日の神戸在泊艦:愛宕(16日昼 神戸発) 潜水艦伊1・伊2・伊3
愛宕日誌にコクトー乗船の入港記録あり
足柄は長崎に居る
— 平たい顔族@東方昭和伝内務省 (@hirataitaisho) 2015, 10月 21
@223_ouest @Erzherzog_Este 1936年(昭和11年)5月の足柄は、18日まで長崎にいて入渠中、19日に佐世保へ移動しているよ。 pic.twitter.com/H5XVxOAPS0
— 平たい顔族@東方昭和伝内務省 (@hirataitaisho) 2015, 10月 21
@223_ouest @Erzherzog_Este うまい具合にその時期の足柄航泊日誌があって、それでも確認済。 pic.twitter.com/rimZeWWiii
— 平たい顔族@東方昭和伝内務省 (@hirataitaisho) 2015, 10月 21
@223_ouest @Erzherzog_Este 5月19日の大阪・神戸に在泊の艦艇はコレ。【大阪】の右側は呉在泊組( )内は建造中の艦。
第一艦隊・第二艦隊は宿毛で大演習中。 pic.twitter.com/cxKvgQwdR6
— 平たい顔族@東方昭和伝内務省 (@hirataitaisho) 2015, 10月 21
@223_ouest @Erzherzog_Este 16日はこれ。19日と変わりなし。5月22日までこの状態。 pic.twitter.com/md6mlhMW0f
— 平たい顔族@東方昭和伝内務省 (@hirataitaisho) 2015, 10月 21
@223_ouest @Erzherzog_Este 昭和11年5月の愛宕航泊日誌発見~ 確かに5月15日は神戸で、16日の昼12時に出港している。 pic.twitter.com/ltMFE3hi6j
— 平たい顔族@東方昭和伝内務省 (@hirataitaisho) 2015, 10月 21
【足柄】昭和11年ジャン・コクトー来日と「飢えた狼」【愛宕】 - Togetterまとめ[archive]
ジャン・コクトーは「足柄の機能美を絶賛」したか?――1936年のコクトー来日の検討 : 「飢えた狼」の探索[archive]
以上より、コクトーが神戸で目にして褒めたのは愛宕のようですが、愛宕=飢えたる狼というわけではありません。
飢えたる狼の件はあくまでもイギリスに出向いた足柄の話。お間違えのないよう。
1937年の観艦式
○1937年、足柄でイギリスに向かった小林宗之助はシンガポールで「ある人」が空母イーグルに比べて狼だと語った、と講演
重巡洋艦足柄が1937年、英国王ジョージ6世戴冠記念観艦式に派遣されて例のあだ名をつけられた件に関して、面白い資料をアジア歴史資料センターで見つけた。『日本外交協会第二百五同例会席上 海軍少将 小林宗之助氏述 英帝戴冠式及観艦式に参列して (昭和十二年八月) 日本外交協会』
— 有村悠%9/20砲雷撃戦18・C17 (@y_arim) 2014, 9月 20
「シンガポールには接伴艦としてイギリスの航空母艦イーグルが居ったが、イーグルはでっぷり太った線に丸味を持った艦である。其のイーグルと我が「足柄」が並んで碇泊して居ったが、或る人が之を見て「イーグルは女性を想はせるが、足柄は狼(ウルフ)のやうである」と批評して居った」(続く)
— 有村悠%9/20砲雷撃戦18・C17 (@y_arim) 2014, 9月 20
(承前)「さう言はれて振り返って見ると、成る程我が「足柄」は艦首は尖り上甲板は波を打って細く長く、重い武装を持って居って狼のやうにも思はれる」
小林少将の述べたことによれば、足柄が「狼」と呼ばれたのはシンガポールに碇泊していた際のことであるらしい。しかしこの言われよう……。
— 有村悠%9/20砲雷撃戦18・C17 (@y_arim) 2014, 9月 20
評されたのはロンドンではない。資料には「或る人」としか記されておらず、報道関係者か軍事評論家かわからない。ことによると邦人かも知れぬ。しかもイーグルと比べての見た目の話で、日英の居住性がどうだとか巡洋艦の用兵思想が何だとか、そういう話ではまったくなかった。本当に単なる見た目の話。
— 若林 宣 (@t_wak) 2015, 10月 22
猫か狼かはさて置いて、面白いのは、どうも同時代にあって既に「イギリスでそう評された」という形に話が変じていたらしいのである。足柄のガンルームでも、言い伝えがそのように変化したのではあるまいか。ことによると、帰朝時に士官の誰かが話をそのように膨らませたやも知れぬとも思うが。
— 若林 宣 (@t_wak) 2015, 10月 22
○1940年、足柄について和辻春樹はロンドン人に飢えた狼と呼ばれたと随筆で語る
@Sol_Arth そる・あーす氏の考えに対する気の効いた返しはボクには出来ないので、当時まだ生きていた日本の造船学の権威である工学博士の和辻春樹先生のお言葉を引用させて頂きます。皮肉なら我が國も負けてはおりません(苦笑 pic.twitter.com/GH3ziqkg2b
— ワカゾー (@WakazoMarine) 2015, 7月 4
→船―随筆(昭和15年)
→随筆 船(1996年、NTT出版)
○参加した各国の海軍が『飢えたる狼』と足柄を呼んだ、と1940年時点で乗艦した石井勝氏は足柄内では信じられていたことを記載
1940年から足柄に乗っていた石井勝氏にとって、1937年のこの件は伝聞でした。足柄の関係者にとって、とても誇らしい言葉だったようです。
ミッドウェーの海に鋼鉄の浮城が燃えている (証言・昭和の戦争
リバイバル戦記コレクション)p.206-207
さる昭和十二年五月二十日、英国王ジョージ六世戴冠式、ならびに記念観艦式がポーツマス港で行われたさい、わが海軍も当時、五戦隊の旗艦であった「足柄」を派遣した。天皇の名代として秩父宮が参列されたが、その御召艦として「足柄」は、はるばるスエズ運河、地中海、ジブラルタル海峡を越え、イギリス・ポーツマス軍港スピッドヘッド沖へ、さらにその帰途、ドイツのキール軍港に入港したのである。
当時、ぞくぞくと集まった列強軍艦に伍し、観艦式に参加した「足柄」の勇姿をみた列国海軍武官たちが、「おお、あれは飢えたる狼だ!」と讃辞をあびせたという由緒ある艦歴をもつ軍艦、それこそが重巡「足柄」であった。
(太字引用者)
×イギリスのマスコミ
前回の記事のとおり、新聞DBを検索するかぎり、Cruiser Ashigara/Asigara どちらのスペルについても、wolf関連の異名はない
×日本のマスコミ
1937年(昭和12年)5月18日、22日付け河北新報を確認。秩父宮夫妻の服装、礼砲の順番など観艦式のプログラム、上空を飛んだイギリス空軍の編隊飛行などいろいろ書いてあるが、異名の記載はない
×イギリスの政府関係者、日本の政府関係者
特別に軍艦クイーンエリザベスに乗せられた秩父宮夫妻以外、各国大使は客船ストラスモアから観艦式を見ていますが、吉田雪子(吉田茂大使夫人)周辺で足柄についての記載はなし
吉田雪子著・長岡祥三編訳 ジョージ六世戴冠式と秩父宮―グローヴナー・スクエアの木の葉の囁き p.110
観艦式の当日はいくらか霧がかかっていましたが、式の光景はよく見えました。それは実に壮観でした。イギリスの軍艦と他の大部分の国の軍艦は、地味なグレーの色をしていました。私は軍艦そのものの目的は好きではありませんが、堂々として威厳のあるその姿は実に素晴らしいと思います。こういう立派な軍艦を見ていると、どこの国でも軍艦に費やすお金をもっと節約すれば、それだけ国民の生活を豊かにできるのではないかと思わずにはいられませんでした。
観艦式の艦船写真を並べたスペイン語のページ、Asigaraの部分とGoogle翻訳
La gran Revista Naval de 1937 por la Coronacion de Jorge VI
El crucero de 10.000 tons "Asigara", cuya apariencia poco convencional atrajo muchas miradas.
その型破りな外観多くの目を集めて万トンクルーザー "Asigara"。
(2015-10-23 更新)
足柄についてのこれらをまとめると、1937年イギリスの観艦式で、当時日英両政府や両国マスコミは特に艦の姿について感想なし、シンガポールである人に空母イーグルは女性で足柄は狼だと語られたと小林宗之助少将は講演し、1940年和辻春樹はロンドン人が「飢えた狼」と呼んだ事実扱いで随筆で語り、1940年から乗艦した石井勝にとって「飢えたる狼」と観艦式で各国の武官から褒められたとして足柄内で誇られていた話、ということになります。
足柄のこの異名について、褒め言葉ではないとする意見の代表的なものは以下。
どうして、妙高型の足柄(重巡)は「飢えた狼」というニックネームをつけられた。
ベストアンサーに選ばれた回答 g3a3_mp5さん
巡洋艦は名の通り遠洋航海能力や速力が求められており、明治時代後半以後第二次世界大戦の終了後まで、艦砲を装備し戦艦より小さく駆逐艦より大きい高速な軍艦として定義されていました。
大英帝国やほかの欧州諸国の場合、巡洋艦の目的は遠方の植民地で反乱が起きる事を防ぐ為に睨みを利かせることであり、停泊地で現地の名士を招いて船上パーティーが開かれるようにデッキは広く、前後の甲板が繋がっていました。
ところが、遠方に植民地(中国大陸や朝鮮半島ぐらい)を持たない日本は「クルーザー」、つまり巡洋艦などには居住性を求めておらず、攻撃的な機能を追及した設計でした。
それを観艦式で見たイギリス人たちは、イギリスの気品あふれる内装とは違い、とにかく無骨だと評価して「飢えた~」などと言ったのでしょう。
各国の「美意識」が軍艦にまで及んでいるとすれば、意外に戦争や兵器は、その時代の「流行」や「トレンド」に沿って造られているのかもしれませんね(笑)
(2015-10-23 更新)現時点の結論としては
1937年観艦式に向かう途中のシンガポールで空母イーグルと比較して誰かが言った「足柄はウルフ」が観艦式から帰国した少将の講演により広まり、1940年ごろまでに「ロンドン人が」「各国武官が」「飢えた狼」と膨らんでいった話、ということになりそうです。
ジョージ6世戴冠記念観艦式 - Wikipedia
艦これの愛すべき残念美人、重巡洋艦「足柄」はなぜ「飢えた狼」なのか | Kousyoublog
1937年、重巡足柄の左舷カタパルト故障による水上機パイロットの死亡事故
足柄の艦の姿についての評判とは関係ありませんが、同じ1937年に起きたこととしてカタパルト事故があります。興味深いので追記しておきます。
近代デジタルライブラリーの『支那事変尽忠録』で、足柄の飛行長だった小池龍介大尉が第二次上海事変でカタパルトの故障により死亡したときの状況がオンラインで読めます。
支那事変尽忠録. 第三卷 p.402-404
・足柄の飛行長、小池龍介は8月13日から、輸送船団掩護・上陸掩護・食糧補給・青島から引揚げる船の護衛・中国北部の沿岸封鎖部隊支援、などをしていた。
・小池は9月17日に津浦線沿線を偵察飛行して鉄道機関庫、貨車、レールを爆撃し、11月5日に陸軍から杭州湾上陸を掩護した。
・足柄は杭州湾金山衛城の南2500mに投錨していた。
・小池は11月8日午前7時15分から午後0時半まで、悪天候下での上陸状況を知るため、水上機で偵察飛行した。
・小池は報告と食事のあと、すぐに偵察した地域の爆撃のため出撃しようとした。
・小池は11月8日午後3時30分の出撃時、足柄左舷のカタパルトが故障していて海に墜落した。
・同乗者は脱出し救助されたが、小池は顔面を強打して意識を失い、飛行機ごと流されて運送船に回収された。
・小池は1時間以上人工呼吸と注射などを受けたが、死亡した。
・小池は福岡県筑紫郡那珂村大字板付出身、小池壽とトヨの間に明治37年6月生まれ、妻のハナ子、息子の宏明、娘の碧がいる。
・小池の履歴は、築上郡八屋尋常高等小学校→県立豊津中学校(4年間)→大正10年8月海軍兵学校→大正13年7月海軍少尉候補生→大正14年12月海軍少尉→霞ヶ浦海軍航空隊飛行学生→海軍練習航空隊高等科学生→昭和5年12月海軍大尉→昭和9年4月に勲五等瑞宝章→昭和11年2月に従六位。
・小池の乗艦や所属は、駆逐艦二十七号(皐月)、夕張、羽黒、妙高、長鯨、野登呂。佐世保、呉、霞ヶ浦の航空隊。昭和11年11月から足柄の飛行隊長、兼、分隊長。
・小池の人物は、穏やか、明るい、友情に厚い、操縦が優秀、典型的な「水上機乗り型」の飛行将校、士官室で碁と将棋をしていた。


<第十夜> カタパルト(Catapult) ④: 《いくさぶね夜話》 -軍艦抄談撰-
海軍兵士の危険手当 - 瑠璃 - Yahoo!ブログ
日本のカタパルトは、潜水艦などでは圧搾空気によるものだったが、
艦船などでは火薬式を使用していた。
使用すれば、『ポン!』と炸裂音が起こる。
その力で押し出すのだが、失敗すれば殉職の危険もあった。
海軍はこの危険行為に対して手当てを支給していた。
兵隊、下士官、士官の階級によって手当ての額に差はあったようだが、
支給回数は五回と決まっていた。
一回の支給額は士官が六円だったとか。
それを彼らは「ポン六(ポンロク)」といっていた。六文銭に引っかけたのだろう。
まさに「三途の川の渡し賃」である。
追記2015-10-21:コクトーが語った日本の軍艦はどうやら愛宕らしい、というツイートがあったため、改稿します。
追記2015-10-23:「重巡・足柄の姿。各国海軍の武官たちとジャン・コクトーと『飢えたる狼』」 はタイトルとしてふさわしくなさそうなので、「重巡・足柄の姿。ジャン・コクトー、観艦式後の講演、『飢えたる狼』」へタイトル変更します。
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