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Betelgeuse's Diary

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三陸の津波後に建てられる石碑類について、NHKの2006年番組から聞き書き

どのようにして、三陸沿岸の住民は津波後に石碑を建て、そしてそれが忘れられてゆくかという講義。

追記:予想外に注目されているようです。
『立ち入り禁止』という文字を知っていて、看板を見ていて、危険の内容も知っていて、でも今回はまだ大丈夫だろうという心理状態にどのようになっていくのかは、とても興味深い話です。

追記2:今回の震災、津波動画へのリンクを 2011 Japan Tsunami Movies : 東日本大震災津波動画メモとしてまとめました。

追記3:他の石碑がどうかは別として、「家を建てるな」の石碑自体は、活かされていたそうです。参考1へ。

テキストは
この人この世界 (2006年8-9月) (NHK知るを楽しむ (月))
失敗学のすすめ (講談社文庫)



↓↓↓

語り:広瀬久美子


”失敗は伝わらない”

その例は、東北三陸海岸で起こった、大津波にみることができます。

明治29年(1896)、高さ38メートルの津波が、20,000人以上の命を奪いました。

それから37年後の昭和8年(1933)、津波はふたたびこの地を襲います。

明治の大津波の後も、同じ場所に暮らしてきた人々。

津波はふたたび3,000人以上の命を奪いました。

37年前の失敗が、また繰り返されてしまったのです。


工学院大学教授 畑村洋太郎


今日は、『失敗は伝わらない』について話そうと思います。

後ろの写真を見てください。

この写真は、三陸海岸に行って撮ってきた、津波のことを書いた碑の写真です。

で、この中身を見ると、こんなことが書いてあります。


大津浪記念碑

高き住居(すまい)は 児孫(こまご)に和楽(わらく)
想へ(おもえ)惨禍(さんか)の 大津浪(おおつなみ)

此処(ここ)より下に 家を建てるな


明治29年にも昭和8年にも、津波がここに来襲して、部落が全滅し、
生存者はわずかに数人しかいない、ということが書いてあります。

で、何でこんな石碑がここに建っているかっていうと。
結局、
『みんな伝えたいことがあるのに伝わらないで、
 また同じことを繰り返して人が死んでいく。
 で、そういうことが分っているから、
 せめて、石碑を建てて、次の人に伝えたい。』
と、思って、こういう石碑ができています。

それで、実際に三陸の海岸に行ってみると、
あっちにもこっちにもたーくさんのこういう津波のことを書いた石碑があります。

ところが、とても皮肉なことに、その石碑が建っているところより下に、人家がたくさん建っています。

どうしてこんなことになるか、というと。

三陸というのは田んぼや畑を作る、そういう場所が無くて、山がストンと海に落ちているから、みんな漁業で生活するしかしようが無い。

そうすると、いつも海に降りていかないといけないんだから、この、津波が来たところの高さより上に家を建てていたのでは、朝に晩に行ったり来たりしなきゃいけなくなる。

で、そうすると、それは

『すごく大変だ。』 ということを経験しているうちに、だんだん

『道具だけは下に置いておこう』

『船は引き上げることができない』 といっているうちに、
 
作業小屋を下に建てて、で、いつの間にか。

だんだん、便利さの前に、危なさを忘れて、

それで、住まいが海のほうに降りていく。っていうことが起こります。

ここに住んでいる人たちは、知識としては、危ないということを知っています。

ですから、津波というのが危ないということは知っている。

ところが、

『自分が生きている間に、絶対津波が来る』というふうには思っていなくて、

『あんまり考えるほどのこともないんじゃないか』 と思いながら、

津波のことを考えないように、考えないようにして、そうして日々の生活を送っています。

知っているの?と聞いたら

『知っている』 と言います。

じゃあどうするの?と言うと、

『いやー、たぶん、俺が生きているあいだは来ないよ。』

って、そういう返事が返ってきます。

その、失敗って、ほんとに起こったときはみんながとっても注意するし、そのことに関心が集まります。

しかし、時間が過ぎるほどに、そのことに関心を払わなくなって、そして忘れていきます。

で、もうひとつあります。

増えていくものがあります。

これは(失敗に対する)無関心と、

それから

『そういうこと(対策を)やんなくたっていいんだよ』

っていうごう慢さとが増えていくんです。

そうして多くの場合、だいたい30年ぐらい経つと、

『ものすごく危なかった』

ということは、ほぼ消えていきます。

↑↑↑



参考1:http://tsunami.dbms.cs.gunma-u.ac.jp/TSUNAMI/JAVASCRIPT/iwate/miyako.html
に、宮古市内に点在する明治29年や昭和8年の津波碑の各種。今回の『高き住居は児孫に和楽』は、宮古市重茂姉吉のもの。

上記の講義と異なり、この映像では石碑の内容が活かされていると扱われています。
他の青森~宮城の石碑については、http://tsunami.dbms.cs.gunma-u.ac.jp/TSUNAMI/JAVASCRIPT/tohoku.php から見ることができます。
此処より下に家建てるな…先人の石碑、集落救う : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
↓↓↓

 「此処(ここ)より下に家を建てるな」――。

 東日本巨大地震で沿岸部が津波にのみこまれた岩手県宮古市にあって、重茂半島東端の姉吉地区(12世帯約40人)では全ての家屋が被害を免れた。1933年の昭和三陸大津波の後、海抜約60メートルの場所に建てられた石碑の警告を守り、坂の上で暮らしてきた住民たちは、改めて先人の教えに感謝していた。

 「高き住居は児孫(じそん)の和楽(わらく) 想(おも)へ惨禍の大津浪(おおつなみ)」

 本州最東端の●ヶ埼(とどがさき)灯台から南西約2キロ、姉吉漁港から延びる急坂に立つ石碑に刻まれた言葉だ。結びで「此処より――」と戒めている。(●は魚へんに毛)

 地区は1896年の明治、1933年の昭和と2度の三陸大津波に襲われ、生存者がそれぞれ2人と4人という壊滅的な被害を受けた。昭和大津波の直後、住民らが石碑を建立。その後は全ての住民が石碑より高い場所で暮らすようになった。

 地震の起きた11日、港にいた住民たちは大津波警報が発令されると、高台にある家を目指して、曲がりくねった約800メートルの坂道を駆け上がった。巨大な波が濁流となり、漁船もろとも押し寄せてきたが、その勢いは石碑の約50メートル手前で止まった。地区自治会長の木村民茂さん(65)「幼いころから『石碑の教えを破るな』と言い聞かされてきた。先人の教訓のおかげで集落は生き残った」と話す。
(2011年3月30日07時22分 読売新聞)

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【東日本大震災】集落守った石碑、流されたプレート…明暗分けた津波の“教訓” +(2/2ページ) - MSN産経ニュース
↓↓↓

50年代の道路の拡幅工事で撤去の必要に迫られたが、数メートル高い位置に移され、石碑そのものは残った。「言い伝えを守ってきてよかった」と川端さんは安堵(あんど)の表情を浮かべた。

↑↑↑
どうやら、”石碑が活かされていない”という失敗についての講義に、この石碑は当てはまっていないようです。

上記記事に従い、地図の標高60m地点にピンを立ててみました。

大きな地図で見る

大きな地図で見る






参考2:明治の津波後、高所に集落を移転した例。
↓↓↓【現場から】「高所移転」集落救う 岩手・大船渡 | ニュース | @S[アットエス] | 静岡新聞SBS

 「明治の大津波をきっかけに、集団で高い土地に移転したんだ」。大船渡消防署の元三陸分署長の木村正継さん(64)が教えてくれた。「高さ7メートルの防波堤も幅30メートルの松林もみんな流された。でも集落は無事だった」
 アワビやホタテの養殖で知られる同市三陸町吉浜の集落は、1896年の明治三陸津波で住民の2割が津波にさらわれ、壊滅状態になった。復興に際し、「また必ず大津波が来る」と確信していた当時の村長らが、高台への集落移転を強く推進した。

↑↑↑
↓↓↓

東日本大震災の津波は標高20メートルの所まで迫ったが、わずかに低い土地にあった3戸が津波にすくわれただけだったという。
 漁師が先祖代々の土地を離れるのは、かなりの覚悟が必要だったに違いない。行政も、住民の説得、移転先の道路や水道管の整備に大苦労したという。「本当にありがたいことだよ」。泥の海と化したよその集落の惨状を思い浮かべながら、柏崎美智子さん(65)がつぶやいた。当時の人々の英断と努力が、115年後に子孫の命を救った。

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上記補足:
【大震災】松本内閣官房参与「津波の被災者には山の中腹に住んでもらい、そこから漁港に通ってもらう」★3
↓↓↓

130 :名無しさん@十一周年:2011/03/29(火) 11:19:15.83 ID:6UEdtcL/0
>>92
吉浜出身の仙台在住の者だが、正直他の所に比べて地形が幸いしたってのもある。
他の地区と比べると、平地が元々少ないのよ。低地に住宅を建ててないのは
その通りだが元々崖に集落を作ったようなところなんで、避難するのがめっちゃ楽。ご老人でも1分くらい山側に歩き続けるだけで相当な高さまで逃げる事が出来る。正直他の地形でこれを実践しろと言われても想像出来ない。

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参考3:津波てんでんこ: 近代日本の津波史 著者: 山下文男[amazon][楽天][bk1]





参考4:
オピニオン 宍倉 正展 氏(産業技術総合研究所 活断層・地震研究センター 海溝型地震履歴研究チーム長)「緊急寄稿『地層が訴えていた巨大津波の切迫性』」 科学技術 全て伝えます サイエンスポータル / SciencePortal
↓↓↓

過去の巨大津波は貞観地震だけではない。貞観地震の津波堆積物よりさらに深く掘り進めると同様の地層の証拠が数層見つかる。巨大津波ははるか昔から繰り返し起こっていたのである。地層の積み重なりを丹念に調べ、各種の分析から津波の発生時期を検討した結果、その繰り返し間隔は約500~1000年間隔であることが解明された。貞観地震からの経過時間を考えると次の巨大津波はいつ来てもおかしくない状況にあったのだ。

これは地震が起こってから、今思えばそうだったと言うような、いわゆる後出しジャンケンでは決してない。これらの地質学的な調査結果はすでに論文や報告書でも公表していたし、それに基づいて国の地震調査研究推進本部(地震本部)がまとめ、三陸沖から房総沖にかけての地震活動の長期評価として早ければ今年4月にも公表する予定だったのである。筆者もこれに関連し、3月23日に地震本部とともに福島県庁に長期評価の内容を説明しに行く予定であった。

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仮に地震前に防災対策が施されたとしても、おそらく通常の防波堤では今回のような巨大津波は防げなかっただろう。かといって500~1000年に1回という事象のために、莫大(ばくだい)なお金をかけ、自然景観を著しく害するような巨大な壁を海岸に配することはナンセンスである(ただし原発周辺は別問題)。残念ながら巨大津波をハード面で防御することは難しい。しかし物的被害を防ぐことは無理でも人的被害を減らすことは可能である。すなわち津波警報の発令から住民への周知、そして避難場所、避難経路の整備、さらにハザードマップの作成や定期的な避難訓練といったソフト面での防災対策である。

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参考5:
参考3の『津波てんでんこ』著者・山下文男氏が、陸前高田市にある県立高田病院で今回の津波に遭遇。
津波研究者、九死に一生 大船渡の山下さん
↓↓↓

「津波が来るぞー」。院内に叫び声が響く中、山下さんは「研究者として見届けたい」と4階の海側の病室でベッドに横になりながら海を見つめていた。これまでの歴史でも同市は比較的津波被害が少ない。「ここなら安全と思っていたのだが」

 家屋に車、そして人と全てをのみ込みながら迫る津波。映像で何度も見たインドネシアのスマトラ沖地震津波と同じだった。

 ドドーン―。ごう音とともに3階に波がぶつかると、ガラスをぶち破り一気に4階に駆け上がってきた。波にのまれ2メートル近く室内の水位が上がる中、カーテンに必死でしがみつき、首だけをやっと出した。10分以上しがみついていると、またもごう音とともに波が引き、何とか助かった。

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参考6:随筆家として有名な物理学者の寺田寅彦が、昭和8年津波に対して、石碑が忘れ去られる件を書いています。青空文庫で全文が読めます。
寺田寅彦 津浪と人間
↓↓↓

 災害直後時を移さず政府各方面の官吏、各新聞記者、各方面の学者が駆付けて詳細な調査をする。
そうして周到な津浪災害予防案が考究され、発表され、その実行が奨励されるであろう。

 さて、それから更に三十七年経ったとする。
その時には、今度の津浪を調べた役人、学者、新聞記者は大抵もう故人となっているか、さもなくとも世間からは隠退している。
そうして、今回の津浪の時に働き盛り分別盛りであった当該地方の人々も同様である。
そうして災害当時まだ物心のつくか付かぬであった人達が、その今から三十七年後の地方の中堅人士となっているのである。
三十七年と云えば大して長くも聞こえないが、日数にすれば一万三千五百五日である。
その間に朝日夕日は一万三千五百五回ずつ平和な浜辺の平均水準線に近い波打際を照らすのである。
津浪に懲りて、はじめは高い処だけに住居を移していても、五年たち、十年たち、十五年二十年とたつ間には、やはりいつともなく低い処を求めて人口は移って行くであろう。
そうして運命の一万数千日の終りの日が忍びやかに近づくのである。鉄砲の音に驚いて立った海猫が、いつの間にかまた寄って来るのと本質的の区別はないのである。

↑↑↑
↓↓↓

災害記念碑を立てて永久的警告を残してはどうかという説もあるであろう。
しかし、はじめは人目に付きやすい処に立ててあるのが、道路改修、市区改正等の行われる度にあちらこちらと移されて、おしまいにはどこの山蔭の竹藪の中に埋もれないとも限らない。
そういう時に若干の老人が昔の例を引いてやかましく云っても、例えば「市会議員」などというようなものは、そんなことは相手にしないであろう。
そうしてその碑石が八重葎(やえむぐら)に埋もれた頃に、時分はよしと次の津浪がそろそろ準備されるであろう。

↑↑↑ 

追記7
以下の記事で、明治の津波後に移住した吉浜地区、防潮堤を建設し備えとした田老地区、家を建てるな石碑の姉吉地区、江戸時代に津波到達点に浪分(なみわけ)神社が建てられた仙台市の霞目地区。それぞれの明暗が検証されています。
河北新報 東北のニュース/「津波」先人の警鐘生かされたか 東日本大震災
上記リンク切れのためこちらでご覧ください→魚拓

tb:
明治三陸大津波から110年 - 仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル - 楽天ブログ(Blog)
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コメント

岩手県内陸部の出身者です。遠方に移住しました。
三陸沿岸部の人の群集心理には驚かされていましたが、ついに来るものが来たなあと思いながら知人の安否をチェックしています。
上記、特に「津波てんでんこ」を紹介なさっているのはすばらしいですね!(著者の山下氏は今回、高田病院で被災しつつも助かったそうです)ほかにも最近再放送していたNHK「地震列島日本の教訓」、河北新報社の「時よ語れ 東北の20世紀」もオススメです。
2003年の科学博物館「THE地震展」は、閑古鳥が鳴いていました…。もう一度やるべきですね。

  • 2011/03/23(水) 00:04:21 |
  • URL |
  • ほいみん #-
  • [ 編集 ]

この論説は大きな誤りです

はじめまして。
南三陸町出身の者です。
三陸海岸の町に住む人が過去の津波の石碑が示す教訓を生かしていない、津波はこないだろうと思っているというのは大きな間違いで、こうした石碑は防波堤などのない頃の到達点です。
そして今回は過去の大津波の到達点をはるかに越える被害で、こうした石碑を目印に避難していたら、助からなかったはずです。
何より先人の知恵と失敗を教訓として、多くの方が助かっています。
この点について、詳細はリンク先の拙ブログの記事をご覧いただければと思います。
(もしコメントなどいただく際は、被災地の方へご配慮いただき、非公開コメントにてお願いいたします。)
またもしこの石碑が今回残っているかご存知でしたら、お知らせいただけますでしょうか。
こちらで情報を持っておりません。

  • 2011/03/23(水) 11:05:17 |
  • URL |
  • 南三陸町と周辺地域への祈り #Xcs7yH/Q
  • [ 編集 ]

「コンクリートから人へ」が平和呆けにすぎないとわかった以上、「人からコンクリートへ」と逆コースを歩むのはしかたないとしても、東日本の海岸線を10メートルの津波から守るために、15メートルの堤防で覆い尽くし、「今度は大丈夫です」と言って、被災者をもとの土地に住まわせるようなことはしないでもらいたい。そういう人間の傲慢さ、大自然を制御できるという思い上がりもまた、いつか報いを受けざるをえないだろう。
数世代にわたり「此処より下に家を建てるな」という教訓を言い伝えることで、大自然の「数百年に一度」というサイクルに、人間の暮らし向きを適応させていきたい。

  • 2011/03/30(水) 08:54:37 |
  • URL |
  • マウス #7SMSw2C6
  • [ 編集 ]

津波てんでんこ: 近代日本の津波史 著者: 山下文男
の一部をここで初めて読みました。
54ページ「失敗した住宅の高所化」・・・難しい問題ですね。

  • 2011/04/03(日) 01:24:45 |
  • URL |
  • 名乗らず立ち去るかっ #YqzQT8Bs
  • [ 編集 ]

東日本震災について

今回初めて、この石碑の事とか宮城県若林地区に在る「波分神社」の事を知りました。知らない方のために簡単に説明します、平安時代の人々が後世の人々にここまで津波がきた事を解るように建立したそうです(海岸から5km位の所らしいです)

また神奈川県鎌倉市にある鎌倉大仏も立派な大仏殿があったのに、津波によって流されたそうです、大仏の肩に痕跡が残っている、今この場所は鎌倉市の避難所になっているそうです。(海岸から1km位)避難場所にしていいのか?

改めて歴史から学ぶ重要性を認識しました。

昔から学校の授業は国語・算数・理科・社会などと言いますが歴史を1番にしてもいい。

また昔から怖いものの代名詞に地震・雷・火事・親父となっているが、
津波・台風はないなぜ?

今村明恒先生の事も紹介します。
明治・大正・昭和の地震学者、関東大震災を発生前の18年前に予測した(ただ周りの地震学者からは相手にされていなかった)、また高速道路も新幹線もない時代大変な労力を費やして、三陸地方を度々訪れ村人に津波が来るから高台へ住居を移すように説得したそうです。

  • 2011/04/06(水) 12:56:20 |
  • URL |
  • 還暦オヤジ #Vlv9gDmU
  • [ 編集 ]

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