つまり、「史実に忠実」をうたい文句としている話は、政宗が眼帯をしていないことで見分けることができます。
逆に、眼帯をつけた政宗は、渡辺謙が演じることで生み出された大衆ヒーローとしての系譜を継ぐ、娯楽作品キャラとして見分けることもできます。
各種図像や遺骨から想定されるリアル政宗は右目白濁の眼帯無し政宗、江戸時代に目玉を摘出する創作が生まれる、
映画では第二次大戦ごろ(1942年)から眼帯路線、書籍や教育関係では肖像画と木像を主にした眼帯無し路線、小説では映画と史実のイメージが混在する。
1960年代に眼帯化した柳生十兵衛が眼帯武士イメージを広めることに貢献。
1987年のNHK大河ドラマでは伊達政宗に眼帯が採用され、影響で歴史読み物、ゲーム、小説、漫画のほとんどが眼帯となった。
というのが現在の状況のようです。
2009年にテレビ東京の歴史ネタ番組で伊達政宗はスペイン人でオッドアイ説という奇説が紹介されて、近年ではこの話も広まってきています。
2016年大河ドラマ『真田丸』では、本来は眼帯は無いが政宗を見分けるためには必要として刀鍔眼帯よりは現実味がある白布眼帯/黒布眼帯が使われ、このバージョンも今後普及していきそうです。
関連:昭和時代に生まれた新伝説、松永久秀の自爆
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まとめ図

ここから先は資料+長文なので、とても暇なときにお読みください。
目次
[史実の政宗]→[「独眼龍」追加]→[大正~昭和にかけて、片目に器具をつけたキャラクター]→[映画での眼帯出現、全国区キャラになる前の政宗]→[柳生十兵衛の眼帯化]→[1985年以前、静かに進む政宗眼帯化]→[1986年・大河ドラマ前夜、眼帯有り無しが半々に]→[1987年、NHKが眼帯を政宗に装着]→[眼帯政宗の増殖、青くなっていく政宗の鎧]→[BASARA政宗]→[2009年、テレ東がオッドアイ政宗説を流す]→[NHK歴史番組の眼帯政宗]→[眼帯を使わないという選択肢]→[2016年、『真田丸』版の布眼帯政宗]→[新たなる眼帯歴史キャラの出現]
史実の政宗
伊達政宗は眼帯キャラではありませんでした。
大坂卯年図の一部に政宗が描かれています。

国立公文書館デジタルアーカイブ
大坂卯年図(おおさかうどしず)
元和元年(1615)5月の大坂夏の陣での、大坂城落城の状況を描いて売り出されたもので、瓦版の始まりと言われるものです。原図サイズ:71cm x 33cm
政宗は両目を入れた彫像や絵画にするように遺言(藩士に対しては、つまり命令)しています。
このため、生前どんな格好だったかがわかりづらくなっています。
この図は当時の新聞記事ですので、政宗の意思が入っていません。「一般人の見た、政宗」はこういうキャラだったということです。眼帯はしていません。
伊達政宗像(東福寺霊源院 所蔵)の右目をつぶった独眼で描かれた肖像画にも、眼帯はありません。口ヒゲ顎ヒゲ頬ヒゲがあります。

東福寺霊源院所蔵 伊達政宗公肖像画[archive]
政宗の鎧にも、顔の防護用マスクとして面頬(めんほお、めんぽお)があったわけで、しかもヒゲ付きのフルフェイス。眼帯の入り込む余地はありません。


※後にこの鎧はダース・ベイダーのモデルにもなります。
ネット上でYahoo!知恵袋を中心にうわさとして「佐竹家文書に白布の眼帯」「伊達家文書/茂庭綱元/留守家の日記に紅白布の眼帯」「花柄布の眼帯記録があるらしい」とされていますが、書籍、出版社、ページ番号など文献としての根拠がなく、デマのようです。
雑談・伊達政宗と眼帯 - 戦国ちょっといい話・悪い話まとめ[archive]
伊達政宗=眼帯のイメージって、何がきっかけなんでしょう?? - Yahoo!知恵袋[archive]
眼帯で有名な武将は、山本勘助と伊達政宗の他にもいるのでしょうか? - Yahoo!知恵袋[archive]
伊達政宗って本当に眼帯してた?ドラマやゲーム・マンガなど... - Yahoo!知恵袋[archive]
■ 小姓が見た晩年の伊達政宗【木村宇右衛門覚書】
伊達政宗の目関係については、あとあとへと影響するエピソードが小姓の木村宇右衛門によって伊達政宗言行録―木村宇右衛門覚書
- 政宗生誕伝説の「義姫の夢枕に片目の万海上人」話は、母親の侍女たちも信じていた
- 政宗出生のころの万海上人は、名取川上流付近の住民に知られる程度のローカルヒーロー
- 万海上人には地元の魚を池ごと片目に変えている伝説など「生まれつき片目にしてしまう」イメージがあった
- 政宗は自分が万海上人の生まれかわり(生まれつき片目)扱いされることについて、武田信玄が不動明王化している木像を悪い例として挙げ、「後天的な失明なので、像の目を外そうとしてはいけない」と宣言
- 若い政宗には脇に異物ができたことがあり、片倉小十郎が手術していた
68(p.100-101)では、政宗死後の話で、政宗の母の義姫の侍女だっためうゑい、めうていの2人の尼が、政宗の誕生秘話を語っています。
不妊に悩むお東様(義姫)の夢に、片目が盲目の身なりの良い上人が「腹を貸せ」といって現れ、恐ろしくてお断りし悪夢から醒めた。話を輝(てり)宗にしたところ「鬼神だろうと次はOKで」と言われ、夢で承諾したところ無事妊娠した。上人は誰だったのか身元調査したら、万海上人という往生を遂げた人(調査員は縄張りの前まで行った)が該当者のようだった。そして「月日かさなり御平産御なんしなり。とりあけ奉り、御名をは御へい様と申したてまつる。上人御さいたんの御心なり。てり宗公御よろこびかきりなし。御家中のよろこふ事そのかんなく、御せいちん(※1)ほとなくほうそう(疱瘡)御煩の後、くたん上人の御かたちのことく、御右の御目しいさせ給う」との記述のあと、政宗死後の墓所造営中に僧侶の墓の蓋石が出てきたこと、上人ゆかりの地で片目のフナやウナギしかいない池があること、などの話が続きます。
59(p.90-91)で政宗と親と疱瘡についてのエピソード。
ある冬の日に政宗の母の義姫の侍女だっためうゑい、めうていの2人の尼が客としてやってきたとき、酒宴の半ばで政宗が母親への恨みを語るなかで、疱瘡のときの親の言行について触れていました。
「我にもかさの煩の時、諸神諸仏へもてり宗公ハ御心をつくされ候へとも、次郎たんしやうこのかた後ちやうあいふかく、煩のうちに一度見廻給ふて、かくとの給ハぬのみならす、もかさにあしき物なとハおくり給へとも、ちせつとうらいなれば残命、本覆の後、次郎のせいちんにしたかつて、伊達のかとくハ二男のつぐ例なれは、弟の次郎へ代をつかせんとの事也」
父親の輝宗は疱瘡が治るよう神仏の祈禱手配を頑張ってくれたけど、弟の小次郎誕生後はそっちばかり寵愛してるし、一度見舞いに来たときに(失明の様子を確認して)「命が助かって全回復しても、弟のほうが「せいちん」(※1)したら、伊達家には二男相続の歴史もあるから跡取りは小次郎のほうで」と言っていたそうです。
※ところでこの文脈、後半の主語(小次郎を寵愛した人、政宗の前で跡取り話をした人)は輝宗でしょうか義姫でしょうか。
58(p.89-90)で、武田信玄の木像を見た政宗の感想と遺言。
一、有時御咄にハ、甲州の信玄ハみつからかたちを木そうにあらハし見給ヘハ、ある人ふどうににたるとへは、よろこひうしろに火えんをつけ、右にりけんをもたせ、左にばくのなわをもたせ、ゑりん寺のかたわきに玉やを作りをかるゝハ、信玄のかたちとならは、乱国の後そう人共是こそ信玄のもくそうなといひて、いわれぬ木のきれにはちをあたえん。ふどうと見る時ハ、てさす人有ましきと也。いまに人々あかめ申なり。
此次て我か身の事ちかきもの共はきゝ置候へ。
死後にさためて木そうなとにあらハし、めい日には香花をそなえん、かならずむようとハいひかたし。
さもあらは両眼をつけて置へし。
むまれつきでハなし。
年たけて後ほうそう煩のうへ、目にあくそう入てかくのことし。親のさつけたるかたちのかくる事ハ、第一ふかう也。
むさとあらハさんにをゐてハかならす無用なりとの給う。
ある時の政宗公の話。
「甲州の武田信玄は木像をつくらせた。それを見たある人は不動明王に似ていると言い、(信玄は)喜んで後ろに火炎をつけ、右手に利剣をもたせ、左手に縛の縄をもたせて、恵林寺のとなりに霊屋を作り、信玄の姿の決定版となっている。乱国(武田家滅亡)のあと、誰もがこの像を『これが信玄だ!』といって、木切れに恥をかかせている。不動明王に見えるというのは、そう示す人がいるからで、そのうち(不動明王として)崇められてしまう。」
「みんな注目。覚えておいてほしい。」
「死後に木像などを作って、命日に香や花をお供えすることは無駄ではないことだけれど、そのときに、像には両目をつけておくこと。生まれつきではない。成長してから天然痘にかかかって、目に膿が入って失明した。
親からもらった姿が欠けてしまうのは親孝行ではないだろう?姿を形にするときは絶対やめておけよ?」
最初に、甲斐で人気の不動明王信仰にしたがって武田信玄は自分の像を不動明王と一体化させたがそれは恥である、と政宗は悪い例として挙げています。
仙台周辺では片目の万海上人が信仰されていて、生誕伝説で政宗は生まれつき片目の万海上人生まれ変わりと扱われていました。政宗は、失明は生まれつきではなく「成長後にありふれた病気で視力を失った」としてとして万海上人と同一視する根拠を消し、像を万海上人に合わせた隻眼にはしないよう求めています。
政宗は続けて強く禁止するため、「目を削除する方向で改変するのは親不孝であり道徳上よくない」として、大事なことを2度言っています。
65(p.97-98)では、目や疱瘡とは関係がない、片倉小十郎景綱と協力した政宗の病気治療話があります。
政宗は「若いころ右の脇が積聚脹満(しゃくしゅちょうまん (*2))となり、投薬治療も効かず横に寝ることもできなくなり、自分で切開しようとも思ったが、刃物では病苦による切腹自殺に見られそうで困った。馬屋にある丸金を焼いて手術用具とし突いてみようと思いつき、片倉小十郎と相談のうえで実行した」と語り、事前に小十郎が自分のもも肉で刺さるか実験してみた、焼けた丸金は三寸あまり(約9cm)ほども患部に刺さった、などいろいろと手術中のやけにリアルな患者視点の描写・終わったあと数十日間のこれまたリアルな膿の話をしたあと、政宗は小姓たちに脇の傷を見せていました。「今なをりたるあとかくのことしと、さしかねを御あてさせ御覧しけれは、かわうすくなおりたる御きすのあと、よこ一寸四分につよく、なかさ二寸八分につよし。小十郎は御かねの心みして、其きす六七十日とていへ候へとも、後まて馬ののりをりにハ、引きつる心あると申よりの給ふ」
政宗は小十郎の協力で膨れた右脇の外科手術を成功させたことについて、傷跡を定規で測りながら、小十郎との絆を自慢していました。
※【当時、親密な相手とは自傷しあう仲】 『伊達政宗の手紙
伊達政宗と只野作十郎 - 自傷行為と理解[archive]
政宗は、小姓が見たものは最終的に幕閣や諸大名に伝わることをよく理解していました。
政宗は自傷してみせてくれた恋愛相手の只野作十郎に合わせて自分も自傷したいが、傷を小姓に目撃されて息子たちへの陰口材料になることを心配し、
政宗は脇腹の古い傷跡を見た小姓たちに向けて、これの手術の前に小十郎が後遺症が残るほどに実験として自傷してくれたと、小十郎からの愛情を誇っています。
どちらも、政宗の体の傷跡について小姓たちがしゃべることを前提にした行動となっています。
小姓が見た政宗の姿を再度まとめると。
政宗の母親が妊娠するときに隻眼の行者が夢枕に立つ因縁があって、
政宗は天然痘で右目を失明し、
政宗の失明を知った親は失望して病床で弟に伊達家を継がせたいと宣言し、
政宗は自分の像を片目玉だけへと加工することを禁止し、
片倉小十郎景綱と共に手術した脇腹の病気の傷跡とエピソードについては見せびらかし自慢する人でした。
■ 死去したときの伊達政宗の目の状態【遺骨の調査】
伊達政宗の墓所・瑞鳳殿(ずいほうでん)が1974年に発掘調査されたとき、政宗の頭蓋骨に、右目まわりの傷などはありませんでした。
眼窩のサイズから左目を大きく見開く傾向だったようですが、両目は成長にともない順調に大きくなっていて、右目は単に視力を失っただけのようです。
瑞鳳殿伊達政宗の墓とその遺品 (1979年)

伊達政宗―奥州より天下を睨む独眼竜 (新・歴史群像シリーズ 19)
「独眼龍政宗」とよばれていたにもかかわらず、頭骨の左右眼窩(眼球の入る部分)にはどこにも損傷が見られなかった。
なお、右目の状態は、生前の姿を忠実に再現したと伝えられる伊達政宗甲冑像(瑞巌寺蔵)のように両目備わった状態で視力のみを失い、それに伴なう眼球内部異常により硝子体が白く濁っていたと考えられる。
政宗の死後は陽徳院(ようとくいん)と名乗った妻の愛姫と、息子の伊達忠宗は、政宗の17回忌にあたって右目ありの木像『伊達政宗公甲冑倚像(だてまさむねこう かっちゅういぞう)』を製作させています。

右目は白濁して左目を見開いており、頭蓋骨とも合っています。
■ 江戸時代、伊達家での政宗の扱い【性山公治家記録】
江戸時代に伊達家で正史がまとめられます。
「片倉小十郎が政宗を手術する話」は外科手術箇所が脇から目に移動して、疱瘡で失明する時期は年月不明となっています。(※1)
江戸時代の半ば、伊達騒動のあと、伊達家はいろいろと創作でいじられるようになりました。
18世紀、伊達政宗のひ孫である伊達綱村は、公式記録(つまり、伊達家がどんなに由緒正しい名家か教科書を創ろうプロジェクト)の編纂を命令します。
綱村と儒学者たちは、民間に広く信じられている政宗の万海上人生まれ変わり説について、「生まれつき隻眼ではないのだから、生まれ変わりではない」という方針をとりました。
伊達家の正史、政宗の父・輝宗の代の伝記である性山公治家記録(しょうざんこう ちけきろく) 1703年(元禄16年)/田辺希賢 によると、
(政宗の前世は隻眼のスーパーマンと言われてた、が…)
- 政宗はものすごい萬海(万海)上人の生まれ変わり!→萬海上人はむかし、経ヶ峯の政宗の墓・瑞鳳殿の西にある黒沼で修行してた!→萬海上人は山にお経を納めた塚を作ったよ!だから山の名前は經峯(きょうがみね)!→萬海上人は隻眼だったよ!だから黒沼の魚も奇跡が起きてて、なぜか片目だけの魚しかいないよ!→政宗が生まれたとき7日間開かなかった左手のひらに大日如来の生まれ変わりな印文があったという話があるけど。萬海上人の生まれ変わりだという話のほうが多いしそれウソっぽい。で、万海上人の生まれ変わりっていうなら、生まれながらに隻眼であるべきじゃないか。でも、
(政宗の右目の失明と、右目が潰れていたわけはこれだ!)
- 年月不明だが疱瘡(天然痘)にかかって政宗の見えなくなった右目周りの肉が盛り上がって飛び出した→家来たちに切るように命じたが誰もやろうとしなかった→最後に片倉小十郎が政宗の目を小刀で手術することになったって話を聞いてる。
- 政宗は右目が欠けていることをとても恥だと思い、ときどき隠そうとしていた→みんな、政宗の目がどうしてそうなのか噂話をしていて、政宗はいらいらしていた。→政宗は未来の人が自分の目について噂するのは困るから、遺言で肖像には両目を入れろと言い残した。
- 遺言もあるしこんなこと書きたくは無かったんだけど、あまりに俗説がひどいからこれが公式見解!
という内容が書かれています。
原文は伊達政宗卿伝記史料(藩祖伊達政宗公顕彰会)1938年より。

公式記録でも、「輙モスレハ其方ノ御目ヲ隠シ玉フ」と目を隠そうとしていたという政宗ですが、仕草なのか眼帯のことなのか詳しい話はありません。
■ 江戸に伝わった伊達家中での政宗の目の逸話【明良洪範】
政宗が脇腹の異常を小十郎が焼き金で手術をしてくれたと小姓たちに自慢していた話、小十郎が腫れあがった政宗の目に刃を入れたとする公式記録。
この2つの物語は、伊達家中で混ざり、物語が生まれていったようです。
伊達家の正史が編纂されるのとほぼ同じ時期、江戸時代中期の1707年まで生きた江戸千駄ヶ谷聖輪寺の住持である増誉は、「明良洪範(めいりょうこうはん) 続編巻二」で、政宗が右目を切ったとされるときの片倉小十郎のかかわりを書いています。
- 目玉が顔から飛び出してきた政宗に対して、片倉小十郎が『見苦しいだけでなく、戦場で目玉を敵に捕まれると不利なので切ってはいかがですか。切ることで命に関わるなら、切腹も覚悟です』と進言。
- 政宗が自分で目玉を切り離したところ、大出血して激しく苦しむ。
- 小十郎は、政宗の耳元で大声で『情けない。平安時代の勇者・鎌倉景政は目に矢が刺さったまま敵を追いかけて討ち取ったのに…。ダメ大将』と煽り(励まし?)、政宗も苦痛に耐え、政宗はそのあとずっと『目を切った程度の痛みで死にそうと思ったのは人生最大の不覚だった』と言っていた
という話でした。
以下が原文。
[明良洪範 続編巻二]

増誉が書いた話では片倉小十郎が目を切ることを勧めている、小十郎が政宗を大将と呼んでいる、右目は政宗自身が切った、この件は政宗自身がよく喋っていた、と物語的にいろいろ面白い点があります。
平安時代後期、後三年の役で奮戦した鎌倉権五郎景政(かまくら ごんごろう かげまさ)には、逢隈田沢(おおくまたざわ)で目に刺さった矢を抜き、その場所は矢抜沢(やぬきざわ)から柳沢(やなぎさわ)という地名になったと亘理町に伝わる伝説にはあります。(「宮城の伝説」、1979年、p.46-48「鎌倉権五郎と矢抜石」)
伊達家の人々は、地元にエピソードが残る目に矢が刺さった平安時代の勇者と、病気で片目を失明した政宗と、片倉小十郎が政宗の手術にかかわったこと、を3つまとめて物語化していったようです。
この話にも、眼帯や目へのカバー的なものの存在は書かれていません。
【片倉小十郎が目に矢が刺さった昔の人の話を政宗にした】部分は、このあと政宗の眼帯化に関わってきます。
【伊達政宗・眼帯化への道】右目は伝承でなぜ飛び出したことになったか
で木村宇衛門覚書、性山公治家記録、明良洪範の政宗手術話を比較しました。
■ 歴史上の政宗について
歴史上の政宗を語るとき間違いやすいものが、要説宮城の郷土誌 (1983年)(仙台市民図書館,種部金蔵 編)
こういった内容が書かれています
- 政宗の母は最上義光(もがみ よしあき)の2歳年下の妹
- 伊達(いだて→だて)の変化は出羽(いでわ→でわ)、抱く(いだく→だく)などと同じ、政宗の頃は両方使っていた
- 伊達家は4世代連続で次男が相続した時期があったので、伝統として長男に「次郎」をつける
- 仙台城周辺が「青葉山」と呼ばれるのは、1602年に福島県信夫郡にあった青葉山寂光寺が来てから
- 五常訓(仁に過ぎれば~娑婆の御暇申するがよし)は政宗の作ではない
- 政宗の法名は「瑞巌寺殿貞山禅利大居士」が正しく、寺は呼び捨てにできないので尊称で「公」をつけて「善利」→「利公」としている
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など。
■ 政宗と同時期の、実在の眼帯人物
伊達政宗と時期が重なる歴史上有名な眼帯人物は、隻眼・眼帯・人妻・美少女・剣士な属性多すぎの「エーボリ姫」エボリ公妃アナ・デ・メンドーサ・デ・ラ・セルダ(Ana de Mendoza de la Cerda,1540-1592)。
「独眼龍」追加
江戸時代の後半になると、頼山陽の詩によって政宗に「独眼龍」の異名がつくようになります。
独眼龍伊達政宗は何故独眼龍と呼ばれたのでしょう? - ひーさんの散歩道
ちょっと脱線しましたが、当時は独眼龍と呼ばれた記録は無いそうです。
『伊達政宗言行録 木村宇右衛門覚書』に、死後自分の木像などを作る時は必ず両眼を付けて置くべし! 親から授かった健全な身体をこのようにしてしまったのは不幸このうえないことである。だから両眼を付けるようにと言い残しています。
独眼龍と呼ばれ、同じく片目で武勇に優れた中国人がいました。
それは、五代後唐(こうとう)の始祖李克用(り こくよう:856~908)です。
彼の軍隊は黒い衣を着用していたところから鴉軍(あぐん)と呼ばれ恐れられていたようです。
この李克用と共通する点が多いことから政宗は独眼龍と呼ばれるようになったと思われます。
こんな長詩があります。
文政六年(1823) 頼山陽(らいさんよう)の漢詩で「多賀城瓦研歌」
この中に「河北終ニ帰ス独眼龍」と言う一句があると言う。
つまりこの文政六年には、独眼龍と呼ばれていたことになりますね。
高い学識がある政宗が、過去の英雄と同じように黒づくめな軍を編成しようとしたのに元ネタ意識は必ずあるはずですが、2014年現在も政宗やその周囲が独眼竜・李克用をどう参考にしたのか当時の文書は発見されていません。
なお、虎哉(こさい)和尚が政宗に独眼龍の名を与えるのは、1981年、伊達政宗 (嵐の中の日本人シリーズ 14) での松永義弘氏の創作。208~209ページより
政宗が、独眼竜といわれだすのがいつごろか、誰がいいだしたものか、私は知らない。この小説では、虎哉宗乙(こさいそういつ)に名づけさせたが、これは創作である。私が、小説の上で効果的と思ったからである。
明治~大正時代、まだ眼帯なし
明治時代から大正時代にかけて男性に髭を生やすブームが来ると、東福寺霊源院が所蔵するヒゲ姿の政宗の肖像が政宗の姿として一般的になります。
この時期も、伊達政宗に眼帯はまだありません。
江戸時代に軍記物語などを読み上げる大衆娯楽「講釈(こうしゃく)」は、明治時代に入り「講談(こうだん)」と呼ばれるようになります。
伊達騒動についての種本では、本文に入る前に、伊達家とは、伊達政宗とは、を語る導入部がありました。
1880(明治13)年の「伊達厳秘録 : 画入平仮名. 上」(丹羽新 編)では政宗の目について特に何もありませんが、
1882(明治15)年の「伊達厳秘録. 上編」(平野伝吉 編)では政宗が満慶上人の生まれ変わりで生まれつき片目、と入ってきています。この間に、東北地方の人が「まんけぇしょうにん」を入れろ、と言ったんでしょうか。
1896(明治29)年の「伊達騒動記. 前編」(桃川如燕 講演)では満海上人となっています。
江戸時代中期の伊達家公式記録では生誕伝説はやめてほしいようですが、明治時代の娯楽ではこういう理解でした。
なお、明治時代は眼帯というと、こういうイメージ。
実用繃帯学(明治32年、1899) p.18

明治~昭和初期にヒゲ姿の東福寺霊源院の伊達政宗肖像画は模写されて、土産物として流通していたようです。
仙台藩祖、伊達政宗公の肖像画。 - 関心空間[archive]

見慣れた「伊達政宗公」とは異なる政宗公の肖像画が描かれた
絵葉書。絵葉書と言っても表面は通信欄ではなく、伊達政宗公に
ついての解説が書かれているので、絵葉書サイズの絵札と言った
ところでしょうか。
「京都の東福寺塔頭霊源院にある画像によって亀井実が描いた」
と表面に記されています。
1890(明治23)年の伊達政宗。『少年教育歴史はなし』 より。

1909(明治42)年の伊達政宗(幼少時)。『伊達政宗』 より。

明治時代に、伊達政宗の眼帯化は見つかりませんでした。
大正時代、『明良洪範』での政宗と小十郎の右目切除シーンは、1915(大正4)年、『内外教訓物語. 人之巻』にイラスト付きで収録されています。
歴史モノは(明良洪範の信ぴょう性はともかくとして)この時点では眼帯なし。
イラストを見ると、伊達政宗が目を切ったのは元服後と解釈されているようです。
[逸話文庫 : 通俗教育. 武士の巻][内外教訓物語. 人之巻]

1920(大正9)年、鉄血録 : 歴史物語での、小田原攻め陣中で豊臣秀吉に陣容を語られる伊達政宗。眼帯はありません。(1944年の豊臣秀吉. 下卷に同じ構図あり)

明らかに創作な、1922(大正11)年の寛永御前仕合 : 長編講談(宝井馬琴 講演)でもまだ政宗に眼帯はありません。
政宗=眼帯の発明・普及はまだ先のようです。

1935年伊達政宗騎馬像、まだ眼帯なし

1933(昭和8)年に寄付を集めて作られた伊達政宗騎馬像(小室達 こむろ とおる 製作)は1935年に完成し、仙台城本丸があった青葉山に飾られます。
1944(昭和19)年1月に撤去され戦争用に溶かされますが、戦後に溶かされなかった部分が発見され、現在は仙台市博物館の庭に胸像としてあります。
1964(昭和39)年、同じ型から2代目騎馬像が作られ、台座にあった4枚のレリーフも復元されて、青葉山に再度飾られています。
小室達作の伊達政宗騎馬像、隻眼表現。
— betelgeuse (@betelgeuse) 2016年7月28日
2代目像は高く日射も強くて見にくいのですが、
仙台市博物館の庭、初代像のほうで見ると
疱瘡で濁り視力のない右目=凸=反射で白く
視力のある左目=凹=黒く
と工夫されていますね。#伊達政宗 pic.twitter.com/YF6tpCmskH
昭和初期の像が作られた時点では、「歴史上の伊達政宗」と「創作上の眼帯キャラクター・伊達政宗」はまだ混ざっていません。

仙台を訪れた観光客の多くが騎馬像や胸像を見て「え? 眼帯、無いの?」と言うのを目撃しています。
大正~昭和にかけて、片目に器具をつけたキャラクター
(1) モノクル(片眼鏡)の「怪盗」イメージ普及
片眼鏡 - Wikipedia
ピエールラフィット社刊『怪盗紳士ルパン』表紙(1907年)にて、アルセーヌ・ルパンに片眼鏡がかけられたことにより(原作には片眼鏡を愛用している描写がない)、怪盗のイメージとしても定着している(名たんていカゲマンの怪人19面相や、名探偵コナンの怪盗キッドなど)。

シャーロック・ホームズにインバネス・コートと鹿撃ち帽が雑誌掲載時に追加され、吸い口の大きく曲がったパイプが舞台劇のときに追加されたのは有名ですが、ルパンにも同様なことが起きて、片眼鏡が怪盗を表わすアイテムとなります。
(2) 黒眼帯の「海賊」イメージ普及
資料確認中
映画での眼帯出現、全国区キャラになる前の政宗
みぃはぁ版・平成伊達治家記録別館俳優記から、政宗を演じた俳優の記録。
眼帯有無不明
伊達政宗 製作=M・パテー商会 (明治45年)1912.02.11 政宗役:?
伊達正宗 製作=日活(京都撮影所) (大正4年)1915.04. 政宗役:尾上 松之助
伊達政宗 製作=天活 (大正8年)1919.10.11 政宗役:澤村 四郎五郎(5代目/澤野 乙吉)
羅馬の使者 製作=帝国キネマ演芸(小坂撮影所) (大正13年)1924.01.23 政宗役:阪東 豊昇
梁川庄八 製作=日活(大将軍撮影所) (大正15年)1926.03.12 政宗役:尾上 多見太郎
梁川庄八 製作=新興キネマ(京都撮影所) (昭和12年)1937.10.21 政宗役:舟波 邦之介(加賀 邦夫)
龍虎日本晴 製作=新興キネマ(京都撮影所) (昭和13年)1938.09.29 政宗役:羅門 光三郎(芳沢 一郎)
1941年、眼帯無し
長谷川・ロッパの 家光と彦左 製作=東宝映画(東京撮影所) (昭和16年)1941.03.26 政宗役:光一

映画では、1942年で刀の鍔眼帯を確認しました。
これがいまのところ、「創作上の眼帯伊達政宗」初登場です。
1942年が初なのかそれ以前からあるのか、刀鍔眼帯が前例のある表現なのか、は映画雑誌を調査してみるしかないようです。
映画史料が充実しているというと、福岡県立図書館あたりでしょうか?
1942年の作品。片岡千恵蔵。眼帯あり。
http://www.jmdb.ne.jp/1942/br000650.htm

日本映画スチール集 大映時代劇戦前篇―石割平・橘公子所蔵版

映画『独眼龍政宗』(1942年)での右目失明シナリオは、『明良広範』を映画向けにアレンジしたものとなっています。
『明良広範』で「失明した目が盛り上がってきて不細工になり、片倉小十郎に目を切るよう勧められた政宗が自分で右目を切除」した話は「戦闘で右目が矢で負傷したから、小十郎に目を切るよう勧められた政宗が自分で右目を切除」となりました。
石坂洋次郎による原作『小さな独裁者』(初出「改造」昭和16年6月号、「石坂洋次郎短編全集」1 昭和47年講談社、ふるさと文学館 第5巻【宮城】 (株)ぎょうせい 他に収録 )には目に矢が刺さる表現も治療で眼帯する表現も無く、映画脚色の稲垣浩が追加したものと考えられます。当時、後三年の役で鎌倉権五郎の目に矢が刺さる勇ましい光景については『明良広範』のほか尋常小学国語読本にもあり、エピソードごと伊達政宗に流用されたようです。
映画内での経緯は
1. 角田城門前の戦闘で、目が傷つく
2. 城門前で、『明良広範』にあるやり取り【片倉小十郎が目を切るよう進言→政宗が自分で目を切る→小十郎が政宗を罵って励ます】
3. 白い包帯で眼帯
4. 刀鍔で白布を押さえる眼帯
5. 色付き布眼帯
6. 完治。目に縦傷が残る表現。以降、眼帯はしない
となっています。
この1942年の政宗映画で、
眼帯は成人の政宗が右目を自分で切り落としたので治療のための医療器具、刀鍔眼帯は傷が治りかけの表現でした。
どうやら政宗眼帯問題の始まりは、この千恵蔵版政宗の刀鍔眼帯が無駄にかっこよかったため、各種広告・宣伝に多用された[archive]ことにあるようです。
このあと、1954年、映画『ゴジラ』で芹沢大助博士が黒眼帯をしています。
1956年の少年漫画。
@betelgeuse ちなみに「眼帯起源」ですが昭和31年発行の子供向け漫画では眼帯をしていない伊達政宗が描かれています。※写真の小林一夫氏の「独眼龍伊達政宗」は眼帯をつけていますがこれは表紙のみで本編は眼帯なしです。ご参考までに。 pic.twitter.com/6bHPtFYHH9
— 伊左大夫 (@0524Isataifu) 2014, 9月 12
[archive]
1959年の映画作品。中村錦之助。眼帯あり。
http://db.eiren.org/contents/03000008795.html

解説:http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1233928607
kotori672007さん
特徴ある隻眼と、センスのいい甲冑で、「名前だけは」有名でした。でも、生涯については、さほど知られていませんでした、一般的に。
一つ証拠として、昭和30年代に作られた、中村錦之助主演の「独眼竜政宗」という映画を観てみれば分かりやすい。(今年DVD化されました)
史実はほとんど出てこなくて、全編創作です。隻眼は、刺客に矢を右目に撃たれたから……となっていて、実際、大河の放映の前は、それが正しいって思ってた人も多いですよ。
錦之助は織田信長や徳川信康、坂本龍馬なども演じていますけれど、これほど史実的でない作品は、おそらくこれだけでしょう。
目に縦に入る切り傷、は当時の有名隻眼キャラだった丹下左膳(たんげさぜん)のイメージを使っていると思われます。

丹下左膳の部屋(序論)で、各種の丹下左膳イラストを見ることができます。
柳生十兵衛の眼帯化
1960年代に入ると、
「黒い刀の鍔を模した眼帯を着けた、隻眼ヒーロー」柳生十兵衛が発明されます。
※政宗の後発として十兵衛は眼帯化しました。
史実上の柳生三厳(やぎゅう みつよし)はこういう顔。史料 柳生新陰流〈上巻〉

創作上では片目を失明したことになっているキャラクターの十兵衛は、失明した目をつぶった姿で表現されていました。俳優・阪東妻三郎が演じる『柳生月影抄』(1941)や『柳生大乗剣』(1944)などがそうです。
五味康祐の小説『柳生武芸帳』(週刊新潮、1956年2月19日号-1958年12月22日号連載)での十兵衛は、1960年代に映画シリーズ化されます。
俳優・近衛十四郎が演じる十兵衛は、柳生武芸帳以前、眼帯を常用しているわけではありませんでした。
柳生旅日記 天地夢想剣(1959)では、目を負傷したあと眼帯をしますが、後半は眼帯無しとなっています。
1959年時点では眼帯はヒーローが目の負傷から立ち上がる過程を表現するアイテムだったことがわかります。
柳生旅日記 天地夢想剣|kazzpの音楽&映画[archive]
悪役やっても殿さま演じてもサマになる近衛十四郎。映画の冒頭で試合を挑んできた武芸者に片目を潰され、咄嗟にもう片方の目をかばったことで心眼の剣、すなわち夢想剣を会得する。後半は眼帯をしないで戦います。
その後『柳生一番勝負 無頼の谷』(1961)から黒い革眼帯、
そして原作者のアドバイスにより『柳生武芸帳 剣豪乱れ雲』(1963)から柳生鍔の眼帯をするようになりました。
→柳生一番勝負 無頼の谷|社団法人日本映画製作者連盟
→柳生武芸帳 剣豪乱れ雲|社団法人日本映画製作者連盟
http://www.geocities.jp/konoejsr/profile-toeijidai.html[archive]
このシリーズは、当初、十兵衛役の近衛の両目が開いていたり、また柳生の政敵である松平伊豆守が味方だったり、それ以上に話がホームドラマ調だったりと、見ていてかなりの違和感があった。
しかし、『柳生一番勝負 無頼の谷』から左目を黒い眼帯で覆い、のちになって五味康祐の勧めによってそれを”柳生拵え”の鍔に変えてから独特のトレードマークとなり、「近衛の前に十兵衛なし、近衛の後に十兵衛なし」と謳われる完璧な十兵衛スタイルが完成された。
後年になって、十兵衛を演じた役者は、『春の坂道』での原田芳男を除いて、すべてが近衛のスタイルを踏襲しているのは特筆すべきことである。
http://www.geocities.jp/konoejsr/profile-hon.html[archive]
別冊宝島「この時代小説を読まずに死ねるか!」 宝島社
96・12 「剣豪乱れ雲」と「素浪人月影兵庫 赤い渦が捲いていた」のスチール写真と永田哲朗氏による解説あり。それによると十兵衛の眼帯を柳生鍔で覆うようにアドバイスしたのは原作者の五味康祐氏だそうです。
この時代小説を読まずに死ねるか (別冊宝島 (289))
※『片目の十兵衛』(1963)では、近衛十四郎が演じる十兵衛と、山形勲が演じる伊達政宗の対面シーンがあります
1960年代、近衛十四郎が演じる柳生十兵衛は「侍のヒーローが負傷中」から「これをいつも付けてるのがキャラの特徴」という意味の転換を、眼帯という小道具に与えました。
近衛十四郎が演じていたときは「柳生鍔」を顔につけたキャラだった十兵衛ですが、
その後は「刀の鍔」を顔につけたキャラ、として、千葉真一や村上弘明へ受け継がれます。

柳生十兵衛 七番勝負 島原の乱 [DVD]
柳生十兵衛=眼帯=刀の鍔、がどれほど日本人の心に焼き付いたのかは、十兵衛を女性化しようと萌えキャラ化しようと、現在でもかならず付いてくる「刀の鍔」に見てとることができます。

※十兵衛の眼帯化のあと、清水次郎長一家の「森の石松」も、目に刀傷がついた表現や目を閉じた表現から黒眼帯着用へと変わってきていますが、まだ完全には置き換わっていないようです。
1985年以前、静かに進む政宗眼帯化
さて、伊達政宗に話を戻します。
鷲尾雨工「伊達政宗」(1967年, 浪速書房, 表紙イラスト 木村芳樹)。歴史小説は、眼帯をつけていません。

1978年、司馬遼太郎の短編集。この時期、政宗はまだ鎧で特徴づけられるキャラでした。

右目について。1979年の地元子供向け教育本では、そもそも疱瘡(ほうそう)=天然痘にかかったことによる失明エピソードが存在していません。
歴史教育において、伊達政宗の失明の経緯についてはほとんど重要視されていなかったようです。

1980年代頃から、一部の小説表紙に眼帯が描かれるようになります。
松永義弘「伊達政宗」 イラスト・成瀬数富、1981年5月出版。

伊達政宗 (嵐の中の日本人シリーズ 14)
1986年・大河ドラマ前夜、眼帯有り無しが半々に
翌1987年に大河ドラマになると発表されたことで、1986年には多数の政宗を扱った本が出版されます。
この時期の政宗は、映画の影響を受けた眼帯有り派と、肖像画や木像を元にした眼帯無し派がほぼ拮抗しています。
1986年眼帯有り派




1986年眼帯無し派
山岡荘八「伊達政宗」横山光輝の漫画版。


西野辰吉「独眼竜伊達政宗」(叢文社,1986/3/1)(富士見書房 時代小説文庫, 1986/10)。


↑武具として本来必要な、顔に「面頬」マスクが着けられた表紙イラストはこれが最初で最後のようです。
山岡荘八作の小説「伊達政宗」(毎日新聞連載1970~1973)、1986年の普及版と文庫版。



この時期、歴史関係の書籍が、NHKドラマになるという伊達政宗肖像画入りのオビをつけて販売されています。

伊達政宗 (物語と史蹟をたずねて)
1987年、NHKが眼帯を政宗に装着

失明経緯は、疱瘡で右目失明、しばらく眼帯生活、政宗が自分で目を突く、伊達輝宗が片倉景綱に政宗の目を処置するよう命じる、の流れ。
シナリオ内においては、前半では「眼帯」、後半では「アイパッチ」と表記されています。
眼帯をするシーンとしないシーンの基準は不明ですが、目が治ったと夢想し眼帯を外す政宗など、演出で使われています。
演ずる渡辺謙とともに、「山岡荘八・ジェームス三木・NHK」な伊達政宗は眼帯キャラ化しました。
地元新聞・河北新報での推移。
1987年1月1日、35ページ。NHKスタッフが成実記ほかの古文も読みこみ、約17万字の調査資料を作成した、とあります。
1月15日18ページと、2月21日10ページに、宮城県酒造組合の「眼帯のない政宗キャラクター」広告があります。
2月15日の「初陣」放映日。3ページに文庫本化された、山岡荘八「伊達政宗」の広告。徳川家康衣装の津川雅彦、眼帯・鎧姿の渡辺謙のイラストが、生頼範義により描かれて入っています。
2月22日、10ページに子孫の伊達篤郎氏(当時76)が登場しています。
史実に忠実にと注文し、よくドラマ化されていると褒めています。眼帯へのツッコミは特になし。
4月1日、13ページに渡辺謙が立ってバックライト付き図柄の、「NTTがテレホンカードを発売」ニュース。
つまり、政宗が隻眼であることは常識であり、地元では眼帯をつけないキャラクターも作られていた。
また、映画・テレビで隻眼のキャラが刀の鍔なかたちの眼帯をするのも、同時に常識。
よって政宗が眼帯をしていても、していなくても、気にする人はいない。
という時代であったと思われます。
考証を重ねた大河ドラマ脚本で眼帯が用いられたため、これ以後、眼帯が歴史分野の書籍イラストにも入ってくるようになります。
眼帯政宗の増殖、青くなっていく政宗の鎧
平均視聴率39.7%の全国放送TVドラマ放映後。

1987年、学習漫画・子供向け読み物は、ほぼ眼帯に占拠されました。




歴史と創作は区別しましょう、という立場の人は従来通りの眼帯無し政宗像を使いますが、少数派になっています。
1991年の、石ノ森章太郎による漫画。関白秀吉の検地と刀狩 (マンガ 日本の歴史)

また、1980年代後半以降の人気シミュレーションゲームシリーズ『信長の野望』において、政宗の顔グラフィックは刀鍔風の眼帯を着けた渡辺謙のイメージで固定され、1990年代に育ったゲーム世代にとって、政宗は眼帯と切り離せなくなります。

http://web.archive.org/web/20041021154827/www.tcn.ne.jp/~zero/kao/masamune.htm
世に広まった「眼帯男・伊達政宗」のイメージにしたがい、過去に出版された伊達政宗を扱った小説も、眼帯をつけた表紙をつけて再刊するのが主流となっていきます。
海音寺潮五郎の小説『伊達政宗』(1962年5月~1964年4月文芸朝日連載)も、2006年にこのイメージとなりました。

2000年、神社のブロンズ像まで進む眼帯化
伊達政宗を祀る仙台市青葉区青葉町の青葉神社では、2000年(平成12年)に眼帯をつけた政宗像が奉納され、手水舎で見ることができます。

台座に「Sosui」とあり、清河宗翠原型のようです。
2005年、BASARA政宗
2000年代に入ると、『戦国無双』や『戦国BASARA』といったゲーム、アニメで、フィクション上のキャラクター・眼帯伊達政宗はさらに彩られていきます。


『戦国BASARA』の初代ゲーム(2005年)は「パロディだらけでアホだけれど、どこか合ってる気もしなくもない」キャラクター創造をしており、おかげで眼帯に引き続いて、史実の政宗を侵食してきています。
このゲームで創造された言葉やイメージ
・奥州筆頭 伊達政宗(おうしゅうひっとう だてまさむね)
奇抜な格好をしてバイクを乗り回す、昭和の非行青少年の代名詞な暴走族。
そのリーダー格の(ヘッド)と、筆頭(ひっとう)、のだじゃれ。掛けことば。
部下の格好も、「特攻服」「ヤンキー」などを連想させるようになっています。
・青い鎧、六爪流
独眼竜=ドラゴン=青龍=竜の3本爪=両手に日本刀を3本づつ持たせる
・六本の刀での剣技
声優に、海賊を扱ったアニメ「ワンピース」で両手と口に3本の日本刀を持ったキャラクター「ロロノア・ゾロ」を演じた、中井和哉を起用。その2倍の刀でおかしさをアピール。
・ENGRISHを使う
史実でイスパニアに使節を送ったから、を「舶来好き=英語好き」と解釈する
ゲーム、アニメ好きで政宗を「筆頭」と呼んでいたら、分かっているうえでのシャレとなります。
しかし、まわりが「筆頭」と呼んでいるから、政宗を筆頭と呼ぶ人もそれなりにいます。
「独眼龍」と同様、「筆頭」も、ちょっと知識のあるオタクが元ネタをちらつかせて語り、うんうん分かる分かるあの李克用ね(笑)戦国BASARAの政宗ね(笑)、と言っているうちに元ネタのほうが知名度が低下してしまい、政宗のオリジナル属性となってしまう可能性も今後あります。
戦国BASARAのヒット以降は、他の眼帯キャラの柳生十兵衛とも混ざり合い、最近の創作物では伊達政宗に剣豪属性がついてきているのも特徴です。
その他、各種の政宗キャラクター・政宗モチーフのキャラクター画像集 ねたミシュランより

伊達政宗や柳生十兵衛の眼帯について - 教えて!goo
伊達政宗の眼帯って、現物は残ってないんですか? - Yahoo!知恵袋
侍はみんな眼帯に刀の鍔使うんですか? - Yahoo!知恵袋
伊達政宗や柳生十兵衛の眼帯について(1/1) | OKWave
2009年、テレビ東京によりオッドアイ政宗が誕生
Twitterでは2010年ごろから、2009年のテレビ東京の番組を元にした政宗オッドアイ説という奇説も流れています。
新説!?日本ミステリー - Wikipedia
第23回 (2009年1月20日)
59 - 新撰組 土方歳三はロシアで生きていた!?
60 - 相撲は古代イスラエルの神事だった!?
世 - 世紀の巨大プロジェクト第2弾 沖縄海底ピラミッド王国を暴く!?-9
61 - 独眼竜政宗はスペイン人だった!?
特 - 寿命がわかる謎の井戸!?
【動画】【歴史ミステリー】独眼竜・伊達政宗はスペイン人だった!?
この2009年のテレビ東京の番組は、クイーンズアイクリニック医学博士・荒井宏幸氏に「オッドアイの可能性っていうのは否定できないと思います」「白人の血が流れている場合は虹彩異色症かも」と語らせ、性山公治家記録で政宗の母の夢に現れたのは「白髪ノ僧」なので政宗の父親はその僧で外国人と仮定し、東海大学名誉教授・太田尚樹氏が「政宗はイスパニアに領土を献上しようとしていた」「政宗がブルギリヨに治療させていた側室は外国人でたぶん白人」、だから政宗もスペイン系の血が流れているはずと結論付ける内容でした。
テレビ東京の番組内で同時に放映された内容を見ても分かる通り、歴史伝説ネタとして根拠の薄い話ですが、これも新たな創作・伊達政宗の逸話誕生と考えると、とても興味深いものです。
おもに女性の二次創作者を中心に、愛好者が着実に増えてきているようです。
当然のことながら伊達政宗が英語を使ったという記述は無い。しかし、正宗は日本とスペインのハーフではないのかという説がある。また、正宗の肖像画は見えないはずの右目も描いている。ということは本当は病気で視力を失ったのではなく、片親が外国人でオッドアイだったから隠していたという説もある。
— 阿波の与太郎 (@AwanoYotarou) 2010, 7月 11
うちの政宗様もオッドアイだよー。バサラハマる前に見た歴史番組で「政宗オッドアイ説」ってのがやってて「ブフォwwwなんだその腐女子ホイホイwww」とか思ってたけど、いざバサラはまったら面白いから採用した← pic.twitter.com/rVJs8OQi9c
— 司 牡丹は浮き上がりたくない (@MorcegoPrincesa) 2013, 3月 24
NHK歴史番組中での眼帯伊達政宗
NHK歴史番組での眼帯をつけた伊達政宗イメージは、以下のページで見ることができます。
2009年11月18日放送 歴史秘話ヒストリア いつも崖っぷちだった~独眼竜・伊達政宗の世渡り人生~[archive]
2010年1月6日放送 歴史秘話ヒストリア 激突!真田幸村vs.伊達政宗~めぐりあい大坂夏の陣~[archive]
2011年7月27日放送 歴史秘話ヒストリア 激突!真田幸村vs.伊達政宗~めぐりあい大坂夏の陣~[archive]
2013年4月17日放送 歴史秘話ヒストリア 独眼竜出陣!“北の関ヶ原”~伊達政宗 母への愛憎を越えて~[archive]
眼帯を使わないという選択肢
伊達政宗を眼帯化しないマンガは、史実ベースでいきたいというこだわりが出ています。
仙台藩祖伊達政宗ライフダイジェスト

2011年から連載されている河北新報かほピョンこども新聞連載「独眼竜政宗」、漫画家・千葉真弓氏の場合
http://blog.kahoku.co.jp/dokuganryu-masamune/2013/05/post-1.html
えー...私は大河ドラマの前に政宗の漫画(※)を描いています。四半世紀たっちゃった。この時、眼帯を使いました。右目を白濁して描くか、瞑って描くか、また眼帯かですが、演出上一番わかりやすいのが眼帯です。ほかのキャラとの差も出せるし。#1では描いちゃいましたが「眼帯...描くんですか...?」という研究者の悲しい呟きに心を打たれ(決して圧力ではありません)、今後眼帯描きません。#1、#3、#7はレアものです。
※引用者注:独眼竜政宗 1 梵天丸の時代
2016年、『真田丸』版の布眼帯政宗
研究者からは政宗の目を覆うものは存在していない。
一般人からは刀の鍔型の黒い眼帯をした政宗が親しまれている。
ドラマ上は政宗を分かりやすく示したい。
という3つの観点がぶつかっていた大河ドラマ『真田丸』では、妥協の産物として小田原攻めの死に装束時は白布眼帯、それ以外は黒布眼帯となっていました。
反応を見ると眼帯ではなく包帯だリアル!、と新たな「戦国武将の真実」が生まれたもようです。
『真田丸』バージョンの政宗と意識されることなく普及していきそうです。
#真田丸 のガイドブック掲載の写真によると、長谷川朝晴氏演じる伊達政宗の右目を覆っている眼帯は、他のドラマや漫画等でありがちな「刀の鍔」ではなく、布のようです。小田原での白装束の時は白い布、それ以外のシーンでは黒い布の眼帯をしています。大坂の陣の時はどうなのかなぁ?
— まこと@らぶうね⊿DD46 (@Luvune) 2016年5月27日
伊達政宗。眼を隠すかどうかは議論になりました。刀の鍔を眼帯にしたというのは、たぶん「独眼竜政宗」かそれに先立つ映像作品の創作です。同時代に近い史料をみると、眼を覆っていた様子がないので、何もなしという案もあったのですが、「誰だか分からない」という実に的確な意見でああなりあました。
— 丸島和洋 (@kazumaru_cf) 2016年6月12日
政宗が眼帯を着けてない…だと…!
— 首領T (@jisonwaki) 2016年6月5日
この大河のこういうリアル路線めっちゃ好き#真田丸 pic.twitter.com/JGV2gdjShT
新たなる眼帯歴史キャラの出現

ドリフターズ 2 (ヤングキングコミックス) 少年画報社 (2011/10/13)
織田信長に眼帯がつけられ始めました。
眼帯並べ#おんな城主直虎 井伊直満 #真田丸 伊達政宗 pic.twitter.com/m4xGaBy0My
— もぐさぬここ (@monogusanukok) 2017年1月8日
2017年、井伊直満にも眼帯がつけられ始めました。
おわりに。
「いい意味でずれてて/狂ってて面白いもの」を子供の頃に味わった大人が、どうズレてるかを正確に解説されないまま大人になると、それを歴史として子供に教えだす。
どんなに荒唐無稽なチャンバラ映画も小説も大河ドラマもゲームもアニメも、一般人に広まってしまえば、それが歴史認識となります。
歴史人物を扱う資料では、後世の娯楽作品でその人物がどう扱われているかも見ないと、あと付けのイメージが混ざるということでもあります。
これからの課題、探しもの
<映画史>
・1942年片岡千恵蔵が演じる伊達政宗より前の(眼帯をした侍)(眼帯をした政宗)(刀鍔風の眼帯をした政宗)があったかどうか。
詳しい方の情報があればお待ちしております。
更新履歴:
2010-03-21 柳生十兵衛の眼帯と、刀の鍔眼帯ルーツについて記述追加
2010-03-22 中村錦之助の政宗DVDについて追加
2010-03-24 新聞記事について追加。文中には入れませんでしたが、河北新報・昭和62年1月1日23ページの「政宗が弟の小次郎を殺したのは、天正18年のさらに2年以上前という文書が発見された」記事は興味を引きました。
2010-03-26 戦国BASARA、図説伊達政宗、伊達政宗言行録、火の鳥文庫伊達政宗、海音寺潮五郎の伊達政宗について追記。目次追加。山岡荘八の伊達政宗の表紙追加。
2010-03-27 『眼帯キャラ・伊達政宗は1987年にNHKから生まれた。』タイトルを、『生まれた』→『広まった。』に変えます。眼帯化は大河ドラマだけでなく、それ以前から起きているようです。
『天然痘の高熱による』は『天然痘による』に変更。
2010-03-28 丹下左膳について追記。
2010-03-29 阪東妻三郎の十兵衛について追記。『伊達政宗の眼帯。1963年のルーツと、1987年にNHKから広まる流れについて』に改題。『信長の野望』について追記。
2010-03-30 片岡千恵蔵の『独眼竜政宗』(1942)でも眼帯化していました。そのため大幅改稿。
2010-04-02 虎哉和尚と独眼龍の関係は無いことに付いて追記。
2014-02-22 ドリフターズの信長、アルセーヌ・ルパンについて追記。
2014-06-12 ニコニコ動画のプレーヤーをYouTubeへ変更。BASARA政宗リンク切れにつき差し替え。
2014-06-14 河北新報かほピョンこども新聞連載「独眼竜政宗」について追記。明良洪範での片倉小十郎について追記。十兵衛項目の打消し線部分、見づらいので削除しました。
2014-06-17 明良洪範を再確認したところ、政宗と小十郎の目玉エピソードの時期は不明なので修正。「二本松、会津」はひとつ前の輝宗奪還時の話でした。エーボリ姫、明治時代の眼帯を追記。
2014-06-18 明良洪範に画像追加。政宗騎馬像については項目を分けました。「第二次大戦前」は「第二次世界大戦ごろ」に改めます。
2014-06-21 正史である性山公治家記録について追記。小十郎と目の手術関係について更新。要説宮城の郷土誌から、政宗関係のものを追記。
2014-06-22 Tweetを上部へと、構成を変更。寛永御前試合について画像を追加。
2014-06-25 小説表紙類を大幅に増やし、頭蓋骨関係は歴史上の政宗に移しました。
2014-07-01 「明治~大正時代、まだ眼帯なし」項目を作り、伊達騒動の講談種本関係を入れました。
2014-07-03 「信長の野望」グラフィックを追記。見づらいamazonリンクの削除。
2014-07-06 1985年~1987年前後の書影上での変化について、できるだけAmazon画像を追加。明治時代の画像を2つ追加。
2014-07-07 東福寺霊源院の政宗像も入れます。
2014-07-08 大映『独眼竜政宗』について追記。『伊達政宗の眼帯。1987年にNHKから広まる流れについて』は、『伊達政宗の眼帯は1942年の映画で初登場、1987年にNHK大河ドラマで半歴史化』とします。
過去の映画で使われた眼帯資料、史実政宗の眼帯史料はこれからも出てきそうですが、いったんこれを結論とします。
2014-07-18 「柳生旅日記 天地夢想剣」について追記。
2014-07-21 「伊達政宗言行録―木村宇右衛門覚書」について追記。
2014-09-08 江戸時代までの歴史部分について、構成を整理。
2014-09-14 木村覚書での「せいちん」の扱いについて、伊佐大夫氏よりのツイートを追記・整理しておきます。
2014-10-14 白眼帯、花柄眼帯、紅白眼帯については裏付けがないため「デマ」と記述します。
2015-01-23 概要を追記しました。これからの課題、探しもの として末尾を更新しました。
2015-01-31 政宗の行った自傷行為について「小姓の見た~」項に追記しました。
2015-02-06 シャーロックホームズに言及した文を改訂。鳥打帽子とインバネスコートは雑誌イラスト由来。
2015-02-13 伊達政宗が小姓から広まる噂のコントロールを行っていた件を追記。概要を改稿。
2015-02-16 タイトル「眼帯政宗の増殖」の後へ「、青くなっていく政宗の鎧」を追記しました。甲冑倚像の説明「独眼の」を「右目を薄く開けて黒目が見える」と修正しました。
2015-03-04 明良洪範の項目で、鎌倉景政について追記しました。
2015-03-24 木村覚書での手術(荒療治)について加筆しました。
2015-03-31 木村覚書、治家記録、明良洪範を比較した新記事を書いたので、リンクを追加しました。
2015-04-20 「政宗はオッドアイ」をやたらとTwitterで見かけるので、これもデマとして追記しておきました。
2015-04-21 NHK歴史秘話ヒストリアの番組サイトへリンクを追加しました。
2015-04-27 鉄血録 : 歴史物語の大正時代政宗イラストを追加しました。
2015-05-01 武田不動尊について加筆しました。
2015-05-02 NHK大河ドラマシナリオについて改稿しました。眼帯早見表を追加しました。
2015-05-22 オッドアイ政宗、スペイン人政宗の出どころが2009年のテレビ東京と分かったので項目を新設しました。
2015-07-06 青葉神社手水舎の眼帯ブロンズ像を写真掲載。「おわりに」文章が冗長なので削りました。
2015-07-27 まとめ部分の文章見直し。瑞巌寺のツイートを追加。早見表をv1.3に更新。
2015-09-10 「自分の隻眼を嫌い」は不適なようなので削除しました。
2015-09-27 甲冑像について項目を分けました。武田信玄木像関連を追記しました。
2015-09-30 遺言について武田信玄木像への言及部分を追記しました。
2015-10-10 まとめ部分を手直ししました。
2016-02-18 まとめ部分に加筆しました。
2016-03-26 生誕伝説を修正しました。
2016-05-03 「家光と彦左」画像を追加しました。まとめはツリー画像へ置き換えます。
2016-06-13 大河ドラマ『真田丸』版の政宗を追記しました。
2016-09-14 近代デジタルライブラリーへのリンクを国会図書館デジタルコレクションに修正しました。
2016-11-27 大坂卯年図のリンク切れ修正。
2017-01-11 1942年映画『獨眼龍政宗』の原作を確認、追記しました。
※1 政宗自身の「せいちん」、親が語る小次郎の「せいちん」を【成人】(時期)と解釈するか、【成長】(育っていくこと)と解釈するか。「成人」とすると疱瘡の時期が5歳や8歳では無くなってしまいますが、このあたりはよくわからないので不明としておきます。
@0524Isataifu 木村宇右衛門覚書と治世記録の差をブログに追記していて http://t.co/KMZNtMXaBA 、失明時期(成人後→時期不明)、小十郎が政宗を手術した話(脇を手術→目を手術)の差が気になったのですが、この部分を解説している文献はありますでしょうか?
— betelgeuse (@betelgeuse) 2014, 9月 11
@betelgeuse おはようございます。治家記録自体が引証記や木村覚書など複数の資料を参照して作成されているはずなので軽々には何とも言えません。定説では5歳頃の幼少期に疱瘡で右眼失明。逸話として小十郎が摘出ですよね。少々お時間を頂きたく。仕事から戻ったら調べてみます。
— 伊左大夫 (@0524Isataifu) 2014, 9月 11
@betelgeuse こんばんは。やはり小林清治著「人物叢書・伊達政宗」と「伊達政宗の研究」(吉川弘文館)が比較的近い内容に触れているようです。しかし失明時期と右眼手術に言及はしてません。というのも大前提である梵天丸時代の確かなことが記録として伝わっていないからです。(つづく)
— 伊左大夫 (@0524Isataifu) 2014, 9月 12
@betelgeuse 性山公治家記録の成立が元禄期ではありますが政宗公生誕に関わる記述はそれ以前の延宝期に存生していた老士たちの記憶を根拠とするものであったと考えられます。それ故、治家記録には失明時期を「年月不知」と記述したと思われます。(つづく)
— 伊左大夫 (@0524Isataifu) 2014, 9月 12
@betelgeuse さらに木村覚書の「御せいちんほとなく」を小井川先生は「御成人程なく」と解釈されていますが「御成長程なく」とも解釈されます。ここは治家記録との整合性を考えると後者が妥当ではないかと考えられます。(つづく)
— 伊左大夫 (@0524Isataifu) 2014, 9月 12
@betelgeuse 右眼手術に関する記述相違について論じしている文献は管見の限り不明です。お役に立てず申し訳ありませんm(__)m (おわり)
— 伊左大夫 (@0524Isataifu) 2014, 9月 12
※2 『甲陽軍鑑』に積聚脹満が風土病の症状として記されています。腹が膨れる症状のことで、病気の原因ではありません。
地方病 (日本住血吸虫症) - Wikipedia
『甲陽軍鑑』品第五十七の文中に、武田家臣の小幡豊後守昌盛が重病のため武田勝頼のもとへ暇乞いに来る場面があり、この中に積聚の脹満(しゃくじゅのちょうまん)と書かれた記述がある。積聚(しゃくじゅ)とは腹部の異常を指す東洋医学用語であり、脹満(ちょうまん)とは腹部だけが膨らんだ状態を意味している。
政宗の、腹部が膨らむ症状があって約9cmの深さまで突き膿を出したら治った病気が何だったのかについては、虫垂炎(盲腸)を想像している書籍もありますが(戦国武将の死亡診断書 酒井シヅ (監修)、エクスナレッジ社