PE2HO

Betelgeuse's Diary

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

松永久秀ボンバーマン自爆説は1975年、南條範夫&桑田忠親が出演したNHK歴史番組で発生した誤解から?

昭和時代に生まれた新伝説。ひとりの歴史家が大きくかかわって松永久秀の自死が切腹から自爆死へ認識がズレると、それに合わせて天守閣炎上が天守閣爆発になり、久秀が火薬を平蜘蛛(ひらぐも)茶釜に詰めるなどの脚色が施されていきました。

【久秀の切腹】
①信貴山城天守閣は内部の放火で炎上。爆発描写などは特にない
②炎上前に囲んだ佐久間側から松永側へ交渉、松永側は久秀の頭部や茶釜を渡すことを拒否、強い表現として火薬で砕くと言ったようだ
③天守閣内部で何があったかは分からない
④久秀の体部分の焼死体は発見されており、そのうえで各所には切腹情報が伝わっている
⑤発見された焼死体の頭4つは安土城に送られている

【久秀伝説】
①久秀の切腹時に頭部や茶釜をほんとに砕いたらしいよ!爆破したらしいよ!牛一や川角が描く太閤記の伝説
②切腹直前に発作予防の灸をするぐらい久秀は健康に気を遣ったし、武士は名誉のために健康に気を付けよう!伝説
③茶釜は久秀がこっそり柳生に渡してたよ!柳生家の伝説
④茶釜は焼け跡から見つかったよ!浜名湖舘山寺美術博物館にある茶釜

【久秀自爆新伝説】
①川角太閤記で久秀の切腹と、死後に頸や茶釜を火薬で砕いたという記述はやや離れていた
②小説家たちは1955年ごろから切腹を省き(久秀)(首と茶釜)(爆発)部分で久秀の自死を表現しはじめた
③歴史家の桑田忠親は頸と茶釜を爆発させる久秀にこだわるようになり、1975年のNHK番組で強く強調、1989年の著書では自爆と書いた
④さまざまな小説で信貴山城そのものが爆砕されるようになった。久秀自身が茶釜爆弾を作るようになった
⑤ゲームなどで久秀は爆弾や爆発を操るようになった

桑田忠親 - Wikipedia著作リストあり

伊達政宗の眼帯と同じく、久秀の自爆も近年に成立していました。

松永久秀の最期まとめv1.5


【歴史】松永親子は切腹して放火し火事で燃え、発見された首4つは安土へ送られた。「大仏を焼いたら自分も焼いてしまったな」という多聞院の日記
国立国会図書館デジタルコレクション - 多聞院日記. 第2巻(巻12-巻23)、英俊、三教書院
松永久秀の最期 当時の記録 多聞院日記より

十一日、昨夜松永父子腹切自焼了、今日安土ヘ首四ツ上了、則諸軍勢引云々、先年大佛ヲ十月十日ニ焼、其時刻ニ終了、佛ヲ焼ハタス、我モ焼ハテ也、大仏ノ焼タル翌朝モ村雨降了、今日モ、爾也、奇異ノ事也、


奈良興福寺の塔頭多聞院から信貴山城が燃える状況を眺めていた僧侶の記録は、松永父子が大仏を焼いた同日付同時刻に死んだほか、翌朝も大仏が焼けた翌朝のように村雨(ゲリラ豪雨)だったというお天気情報。
九日の「あのときは大仏殿以外にあれも燃やされた!あれも!あれも!あれも!」がコワい日記です。




【歴史】吉田兼見の兼見卿記(かねみきょうき)では、松永久秀は切腹して放火し死亡

新訂増補 兼見卿記 第一 2014年5月20日, p.128

十一日、甲牛、彗星御祈十七ヶ日也、進上御祓、天度也、自和州佐竹羽州書状到来、昨日十日松永在城之シギ落城、父切腹自火、悉相果云々、時刻光源殿御罰眼前欤、向村長、松永義治定也、


京都吉田神社神主の吉田兼見は、空に大彗星が現れて祈祷が必要になり17日経過したこの日、大和にいる佐竹定実からの書状で久秀の死を知って天罰の理由は足利義輝を殺したせいだと書いています。

兼見卿記1 (史料纂集 古記録編)





【歴史】太田牛一の『信長公記』(のぶながこうき)では、松永久秀は天守閣に放火して焼死した
国立国会図書館デジタルコレクション 信長公記. 巻之中
国立国会図書館デジタルコレクション 史籍集覧. 19

十月十日の晩に 秋田城介信忠 佐久間 羽柴 惟任 惟住 諸口被仰付 信貴の城へ被攻上夜責にさせられ防戦弓折矢尽松永天守に火を懸焼死候 奈良之大佛殿 先年十月十日の夜炎焼偏に是松永云為を以て三国無隠大迦藍事故なく為灰燼其因果忽歴然にて誠鳥獣も足を可立地にあらす高山嶮所を輙 城介信忠 鹿之角の御立物ふり立〱攻させられ日比案内者と聞へし松永無詮企して己れと猛火之中に入部類眷属一度に焼死客星出来鹿之角の御立物にて責させられ 大仏殿炎焼之月日時刻不易事偏に春日明神の所為也と諸人舌を巻事



現代語訳された書籍は




【歴史】太田牛一の『大かうさまくんきのうち』(たいこうさま ぐんきのうち)では、松永久秀は平蜘蛛の釜を砕き、天守閣に放火して焼死
戦国史料叢書〈第1〉太閤史料集 p.170

さるほどに、先年松永しわざをもつて、三国かくれなき大がらん奈良の大仏殿、十月十日の夜、すでに灰燼となす。そのむくゐ、たちまち来たつて、十月十日の夜、月日じこくもかはらず、松永父子妻女一門れき〱、天守に火をかけ、平蜘蛛の釜うちくだき、やけ死に候。まことに、欲火胸をこがすとは、此節なり。天道おそろしき事。



戦国史料叢書〈第1〉太閤史料集 (1965年)

太田牛一は2つの話のどちらも、松永久秀が大仏を燃やした日付時刻に自分も燃やすとは因果であるという内容。『信長公記』ではその晩は夜空に客星が見えたこと、信忠が鹿角の前立てを振り回して(←2回も言ってる)久秀を滅ぼすとか奈良の春日明神(奈良の鹿たちの親分)は凄すぎ!という話。『太閤様軍記の内』では平蜘蛛釜をうちくだく話。
火災現場の近くで惟住(丹羽長秀)に従っていたらしい牛一は、久秀が燃えることがごく当然だと思ったらしく、久秀がどう切腹したかには関心がなさそうです。




【歴史】川角三郎右衛門の『川角太閤記』(かわすみ たいこうき)では、松永久秀は切腹後の頭部と茶釜を爆破するよう命じた
国立国会図書館デジタルコレクション
※これの著者が川角三郎右衛門である理由については桑田忠親(『豊太閤伝記物語の研究』1940年 p.168、『太閤記の研究』1965年 p.122。仮名遣い以外は同内容)。

太閤史料集 校注 桑田忠親
p.270

一、後、人〱のさんだんには、是は松永殿大和のしぎ山の城にて切腹の時、矢倉下へ付け申し、佐久間右衛門手より城の内へ呼ばわりかけ申すに、ちつとも違い申さずと、人々、後に申されけるとかや。


言葉しも相たがわず、頸は鉄砲の薬にてやきわり、みじんにくだけければ、ひらぐもの釜と同前なり。


武将が追い詰められて城が落ちるときに、宝物はどうなるか。川角は、坂本城落城のときについて語ったあと、「宝物引き渡しの交渉は信貴山城落城時、松永久秀の切腹のときと同じだった」と語る人々の噂話を収録しています。信貴山城天守閣を包囲した佐久間側への、松永側への返答は「久秀の首と茶釜は火薬で破壊し、渡さない」という交渉決裂だったそうです。久秀の頭部と茶釜は宣言通りに火薬で破壊されたと川角太閤記では書かれています。川角は久秀から信長に渡った九十九髪は本能寺の変で燃えたことにも言及していて、松永久秀所有の茶器とともに久秀も信長も燃えていることに何か感慨を覚えているようです。

現代語訳された書籍は




【歴史】作者不詳の『備前老人物語』(びぜんろうじんものがたり)では、松永久秀は切腹前まで持病の発作がおきないように頭頂部のツボにお灸をしていた

備前老人物語・武功雑記 現代思潮社 1981年8月24日,p.112

一一八
ある老人、年老いて「身の養いもいらぬものなり」と言いしを、ある人諫めて、「一夜の宿も雨露もりぬるはよからず、昔松永、信長公に戦まけて自害に及ばんとせしに、百会に灸して言いしは、
『これを見る人いつのための養生ぞやと、さこそおかしく思うべけれども、我つねに中風をうれえぬ。死にのぞみて、もし卒爾に中風発して、五体心にまかさずば、臆したりとやわらわれなん。さあらんには我いまゝでの武勇こと〱゛くいたずらごとなりぬべし。百会は中風の神灸なれば、当分その病をふせぎて、こゝろよく自害すべきとのためなり』
とて、灸をしすまして腹切りしとなり。其の名を惜しむ勇士は、かくこそあらまほしけれ」といいけり。


これの前の第116段は織田信長が徳川家康の前で松永久秀の悪行をからかう話、第117段は松永久秀がスズムシを長期飼育して健康法の大事さを示す話。信憑性はありませんが、久秀のようにふだんは健康を維持して必要な時は切腹を完遂する(=臆病者でないことを示す)ことが武士のお手本と考えられていたことは確かなようです。

備前老人物語 武功雑記 (古典文庫 57)




結論:リアルな久秀の最期は
「切腹し死亡 または 炎に突入して焼死」「遺体は焼けたが発見され回収、切腹を遂げたと判定された」ぐらい。

橋場日月(はしばあきら)氏のブログより
一個人|季節と時節でつづる戦国おりおり||松永久秀の〝自爆〟[archive]

『信長公記』に「天守に火をかけ、猛火のなかに入って焼死」
とあるほか、焼死したという記録は数多くあるものの、
ちょっと踏み込んだものでも
『老人雑話』に「鉄砲の火薬に火をかけた」、
さらに『松永乱記』に「鉄砲の火薬を2斗ばかり仕掛け、
火をかけてその上から油をまいた」とあるばかり。
『川角太閤記』はさらに進んで
「首は鉄砲の火薬で焼き割り、みじんに砕いた」とあるが、
これは「明智光秀が敗れたあと、
坂本城の天守が鉄砲の火薬で焼かれ、
「煙となって天へのぼった」のと一緒だ、
とみんなが言い合ったことの前振りだから、
どうも爆発というより天守を短時間で炎上させるために
火薬が用いられたという情景に見受けられるし、
なによりここでは久秀は自害したあとで
打ち落とされた首を火薬で破壊したことになっている。
自爆、爆死、というには無理があるようだ。

実際、この信貴山城陥落を奈良から見物した
興福寺の僧も「自焼」「猛火が天に輝いて見えた」
とだけ記しており、
「何らかの爆発的事象」(枝野元官房長官風に)
があった気配は見あたらない。
やはり久秀は天守に火をかけ、炎のなかで死んだ、
と考えるのが適当なようだ。






久秀の茶釜ボムはいつから言われるようになった?







1882年 真書太閤記 : 今古実録. 5
「壺」を砕いて切腹

1883年 真書太閤記. 第5編 巻1−10
松永久秀の最期、明治時代 真書太閤記より
「壺」を投げつけて切腹し、その後に誰かが天守閣へ放火

1886年 絵本太閤記. 上
久秀は釜を砕いて切腹、息子は久秀の首を持って火に飛び込む

1912年 太閤記. 第2編
久秀は釜を砕いて切腹、息子は久秀の首を持って火に飛び込む





吉川英治作品では、松永久秀は切腹後に頭部と茶器を爆破するよう部下に指示
吉川英治 新書太閤記 第五分冊(青空文庫)

初出:太閤記「読売新聞」 1939(昭和14)年1月1日~1945(昭和20)年8月23日


その断り方も彼らしい。
「さきに、信長に、つくもがみの茶入れをねだられて、茶入れは取られたが、久秀の首と、平蜘蛛の釜だけは、信長の眼にも供(そな)えぬ」
 と、豪語して交渉を蹴った。そしてその通り、落城の日は、自分の首も、平蜘蛛の釜も、鉄砲(たま)ぐすりを仕掛けて、粉々にくだいてしまうように家臣へいいつけ――その上で腹を切った。よほど忌々(いまいま)しかったのであろう。


「なに、平蜘蛛(ひらぐも)の釜(かま)と、自分の首とに、鉄砲(たま)ぐすりを仕掛けて、粉々に砕けと遺言して腹を切ったとか。……あははは、おもしろい悪党。強情なおやじではある。――しかし一代の野望家、弾正久秀(だんじょうひさひで)のあたまも、はや彼の釜よりも古くなったな。旧(ふる)い、旧い」
 彼の最期のさまを、あとで聞いた信長は肩をゆすって笑いぬいていたという。






1955年、中山義秀が松永久秀ボンバーマンを語りはじめる
中山義秀全集 第4巻 新潮社版(1971年)収録、松永弾正(『オール読物』1955年8月号~12月号)
p.406

松永弾正は天守閣にのぼり、「平蜘蛛」の釜と自分の頸に火薬を仕掛け、二つとも木ッ葉みぢんに砕いて死んだ。釜も首も、信長に渡したくないといふ、弾正らしい意地ッぱりである。






1958年、井上靖も松永久秀をボンバーマン化している
井上靖文庫4 新潮社(1961年)収録、平蜘蛛の釜(『群像』1958年10月号)
p.319

それから幾許もなくして久秀はその言葉通り、落城の時爆薬で自分の頭を割った。平蜘蛛の釜はどうなったのか、ついに城の焼跡からも出て来なかった。






1961年と1970年、司馬遼太郎は久秀爆死ではない




※1963年から1965年連載の『功名が辻』でどうかは未確認




1960年、桑田忠親はまだ松永久秀ボンバーマン説ではない
桑田忠親著作集 第四巻 織田信長(秋田書店)収録「織田信長の手紙」より

十月十日、松永父子は、織田信忠の大軍に信貴山城を包囲され、力つきて、城内に放火し、愛用の名物茶器平蜘蛛(ひらぐも)の釜とともに自決したのである。



『織田信長の手紙』初出は昭和三十五年(文芸春秋新社)、原題は『信長の手紙』
桑田忠親著作集 第4巻 織田信長(1979年)




1963年、桑田忠親はまだ松永久秀ボンバーマン説ではない
武将伝 戦国の史話(1967年版) p.120

それ以来、弾正は、信長に臣従していたが、天正五年八月、石山本願寺攻めの最中、俄かに天王寺の砦を撤し、信貴山の居城に帰って、叛意を示したので、信長の長男織田信忠の軍勢に攻められ、十月十日、自害している。ときに六十八歳であった。


本文は空にほうき星(弾正星)が出たことについてなど。自爆などには触れられていない

戦国の史話―武将伝 (1963年)
武将伝戦国の史話 (1967年) (歴史選書)
戦国の武将三十人(1996年)




1964年、山田風太郎『伊賀忍法帖』では爆死ではない
伊賀忍法帖(講談社文庫) p.187

このとき――攻め寄せた織田の一武将が、かねがね弾正の秘蔵する平蜘蛛の釜は天下の名器、せめてこれだけは‎後世のために城外へ出されてから腹切られよ、と申し入れたのに対して、弾正は天守閣の高欄に出て悪鬼のごとく打ち笑い、たわけ、後世も来世もあるものか。おれが首と平蜘蛛の釜、この二つはあくまで信長の目にはかけぬわ。よく見ておけ、とさけんで、寄手の眼前で平蜘蛛の釜をみじんにたたき割り、身をひるがえして炎の中へ消え去ったという。



伊賀忍法帖 山田風太郎忍法帖(3) (講談社文庫)




1965年、NHK大河ドラマ『太閤記』松永久秀の最期があるか不明(吉川英治原作)




1967年、桑田忠親は松永久秀の切腹死後の、首と茶釜の爆破を語る。誤解を生みかねない表現。
茶道の歴史 p.110 茶道の普及 昭和42年8月30日初版

しかし、その際にも、信長から、秘蔵の平蜘蛛の茶釜を所望されたが、久秀は、―作物(つくも)は致し方なかったが、この平蜘蛛と拙者の白毛首だけは、渡すことはできない―といって、切腹したのちに、自分の首を鎖で茶釜にくくりつけ、火薬でもって、木葉微塵に打ち砕かせたと、いうことである。


川角太閤記に沿った内容。ただし、この文章だと腹を切った久秀自身が首と茶釜を結びつけている印象を与えかねない。またここで初出の「鎖」がどの史料から出たものかが不明。

茶道の歴史 (講談社学術文庫) 1979年





1975年のNHK番組が火種?




日本史探訪 | NHK名作選(動画他)[archive]

初の毎週定時の歴史番組。毎週定時の歴史番組は、NHK、民放を通じて初めてだった。番組のねらいは「茶の間の日本史」。歴史上の人物や出来事をテーマにして、松本清張、司馬遼太郎(「遼」しんにょうの点が二つ)、海音寺潮五郎ら、著名な作家や評論家の自由な視点を軸に、日本史を見直そうというもので、折からの歴史ブームに乗ってファンを集めた。

放送期間 1970年~1976年



NHKアーカイブス番組表検索結果 日本史探訪 松永

1975年06月14日(土)
午後11:15~午後11:44 総合 日本史探訪 「松永弾正久秀」 南條 範夫,桑田 忠親

1975年06月20日(金)
午後04:05~午後04:34 総合 日本史探訪(再) 「松永弾正久秀」 南條 範夫,桑田 忠親


南條 範夫 出演者 作家
桑田 忠親 出演者 歴史学者






この回について、本で収録されているのは以下の3冊。
日本史探訪〈第15集〉 (1976年)
日本史探訪〈9〉戦国の武将たち (1983年) (角川文庫)
日本史探訪〈9〉戦国の武将たち (角川文庫 緑 533-9)




誤解を招く番組構成と、説明が足りないトークをする2人

NHKの放送が書籍化された、その原文を見てみました。桑田忠親氏が「爆破」を何の資料を基にしたかは書いてありませんでしたが、後世に重大な誤解を生む表現がありました。
日本史探訪〈第15集〉 (1976年)
p.124 南条範夫氏のトーク

南条 松永久秀は織田勢に囲まれて、天守閣で死んでしまう ― 腹を切って死んでしまうんですが ― その少し前に、そばにいた部下が天守閣から外を見て、「弾正星が現れています」というんです。



南条範夫氏と桑田忠親氏の考えているだろうこと
 腹を切って死んだ → 介錯人が首を切り離した → 胴体と切り離された頭部(首)の話をしようか

NHK視聴者の考えそうなこと
 腹を切って死んだ → そーなのかー!よくわからんけど壮絶だ

p.139 解説文中の一行

そして、天正五年十月十日、信貴城落城に際し、釜と自分の首を鎖で結び、火薬を点じてもろともに、微塵となって砕け散った。


p.140 桑田忠親氏のトーク

敵将に自分の首を渡せば晒しもの、つまり見せ物にされるから、死に恥をかくわけですよ。それがしゃくだから、おれの首は絶対に渡さん。「平蜘蛛の釜」をやるのもいやだ。


 
南条範夫氏と桑田忠親氏の考えているだろうこと
 松永久秀は頭部(首)だけになった → 部下が頭部と釜を離れないように縛って爆破してくれた

NHK視聴者がまず考えそうなこと
 松永久秀は鎖を首輪にして釜とつないで、自分で火薬に点火して爆死したのか!(腹を切って死んだ、はもう忘れている)










1976年、海音寺潮五郎作品『悪人列伝三』の松永久秀は切腹後、家来に首を爆破させた
悪人列伝三 海音寺潮五郎 文芸春秋社(1976年)収録
p.79

久秀はいよいよ最後となると、天守に火をかけ、腹を切り、自分の首は前もって家来に命じておいた通り、火薬で粉砕させ、炎の中に灰燼になってしまった。



悪人列伝―近世篇 (文春文庫)(2007年)




1981年、NHK大河ドラマ『おんな太閤記』松永久秀の最期があるか不明




1982年、『伊賀忍法帖』映画化。天守閣爆発なし。平蜘蛛の釜は焼却。

1982年の映画『伊賀忍法帖』

伊賀忍法帖 ネタバレ注意 江保場公園/ウェブリブログ[archive]

最後は城太郎を影で支えていた新左衛門が弾正を斬った。原作では15年後に死ぬんだけどね。そして最後は城太郎と右京太夫のキスシーンを果心居士に看取られて終わる。平蜘蛛の釜は火にくべられた。






1983年、早乙女貢作品『悪霊』では天守閣爆発あり。茶釜砕きと爆発は別々。
悪霊 下、p.324

そして平蜘蛛の破片を集めて箱に糠詰めにして、一書を添えた。



平蜘蛛の箱が信忠の陣所へ届けられたころ、凄まじい爆発音とともに天守閣が吹っ飛び、火の柱が天に冲した。



悪霊 下―松永弾正久秀 1983年
悪霊―松永弾正久秀 (新潮文庫) 1989年




1983年、NHK大河ドラマ『徳川家康』松永久秀の最期があるか不明




1984年、笹沢左保作品『野望将軍』で松永久秀は切腹後の首の爆破を希望
野望将軍 下(ハードカバー版)、p.155

いよいよ、自害のときが参りました。平蜘蛛の釜を粉々に打ち砕かせたあと、久秀は天守閣に火を放つことを命じます。
「わが首を、硝薬によって粉々にせよ」
これが、久秀の最後の言葉でございました。
久秀は、切腹をいたしました。久秀の首は遺言どおり、家臣が仕掛けた鉄砲の火薬によって、粉砕されたのでございます。



野望将軍 (下巻) 1984年
野望将軍〈下〉 (集英社文庫) 1986年



1985年
なぜ1985年発売のファミコンソフト「ボンバーマン」を戦国大名の記事で連呼しているかというと

もちろんこのシチュエーションのため
ボンバーマン






1987年、早乙女貢作品『叛臣伝』で松永久秀はボンバーマン。鎖はなし。火薬を釜に仕掛けるようになる
叛臣伝、p.91

天正五年十月十日、松永弾正は信長がほしがっていた「平蜘蛛」の釜とおのれの頸に火薬を仕かけ、木端微塵に砕いて、れいの天守からもんどり打って寄手の中に落ちた。



叛臣伝 (光文社文庫) 1987年




1987年、澤田ふじ子作品『村雨の首』では久秀は切腹、天守閣は炎上、釜は柳生へ
歴史小説集 村雨の首 澤田ふじ子 廣済堂出版(1991年)収録、『村雨の首』(「別冊歴史読本特別増刊」1987年冬号)
p.99

久秀は老臣たちの顔を一瞥して、小さく笑い、かっと唾を吐いた。
普通、この平蜘蛛の茶釜は、信貴山城が落ちるとき、久秀が火薬をつめて首にかけ、身体もろとも爆破したと伝えられているが、柳生藩記『玉栄拾遺』には、柳生松吟庵(重巌)にこっそり贈られ、代々の重器とされたと記されている。


p.100

松永久秀は炎上する天守閣の中で腹をくつろげ、海老名友清が介錯の太刀をふり上げたとき、「あほくさい一生だったわい」とつぶやいた。



村雨の首―歴史小説集(1991年)
村雨の首 (広済堂文庫)(2001年)




1989年、桑田忠親氏は松永久秀ボンバーマン説を主張(桑田氏は1987年に死去している)、NHK放送に続きこれもソース不明
新編 日本武将列伝 4、p.32

久秀は、天をあおいで嘆息し、天下の逸品「平蜘蛛」の茶釜を首につるし、火薬に点火して、茶釜もろとも自爆した。



乱世統一編 (新編 日本武将列伝)




1989年と1991年、津本陽作品『下天は夢か』で松永久秀は茶釜を床に投げて砕いたあと、切腹
下天は夢か 4巻 p.166 1989年8月24日初版、日経新聞連載1986年12月1日~1989年7月30日

久秀は平蜘(ひらぐも)という天下に聞こえた茶釜があったのを、頭上にさしあげ床に投げつけて粉々に砕いた。
久秀は猛煙のなかで子息右衛門佐久通をはじめ、一族十一人、郎等二百三十余とともに腹を切り六十八歳の生涯を終えた。



下天は夢か 全4巻セット 函入り


下天は夢か 絵物語 p.209 1991年12月5日初版

彼は最期の時が迫ると、本丸に秘蔵する和漢の七珍万宝をすべて火に投じた。さらに平蜘(ひらぐも)という天下に聞こえた茶釜があったので、頭上にさしあげ床に投げつけて粉々に砕いた。
久秀は猛煙のなかで腹を切り、六十八歳の生涯を終えた。



絵物語・下天は夢か




1992年、NHK大河ドラマ『信長 KING OF ZIPANGU』松永久秀の最期があるか不明




1993年、信長の野望合戦辞典ではボンバーマン説もあるという扱い。「茶釜に火薬を詰めて」が紹介される

信長の野望合戦辞典、p.128

十月十日、織田軍の総攻撃の前に松永父子は破れ、自決。ちなみに巷説によれば、久秀は平蜘蛛の茶釜に火薬を詰めて壮烈な爆死を遂げたと伝えられている。また偶然にも、その日は彼がかつて東大寺大仏殿を焼いたのと同じ日であり、人々は大仏の祟りだと噂した。



信長の野望合戦事典




1996年、八尋舜右作品『松永弾正 火の器』では、久秀は釜に火薬を詰めて自爆
慶喜残暦 八尋舜右 中公文庫(1997年)収録、松永弾正 火の器(『時代小説大全11』1996年3月号)
p.185

五右衛門が仕切りをあけると、弾正がかねて用意の火薬を平蜘蛛の釜につめ、みずからも口いっぱいふくむところだった。そのまま、前のめりに炉の中に倒れこむ。
「くわばらっ」
五右衛門がはねとんで逃げるとどうじに、轟音とすさまじい火柱が立ちのぼり、平蜘蛛の釜も弾正の首も微塵にくだけとんだ。



慶喜残暦 (中公文庫)




1996年、黒部亨作品『松永弾正久秀』で、久秀は釜は砕き、切腹、天守閣は爆発
松永弾正久秀(1996年)黒部亨 
p.305

なかをあけてみて月子は息をのんだ。さっき茶室で使用したばかりの平蜘蛛の釜が数個の鉄の破片に一変して箱の底にあった。


p.306

それから両手で木箱を持ちあげてなかをのぞきこみ、「さて、わしもこれで心おきなく三途の川を渡るとするか」片手をのばして脇差をとった。

 天地を引き裂く轟音とともに四層櫓が空中へ飛び散った。地ひびきがしばらくつづきて山中の樹々がざわめいた。



松永弾正久秀(1996年)
松永弾正久秀―梟雄と称された知謀の将 (PHP文庫)(2001年)




1996年、NHK大河ドラマ『秀吉』松永久秀の最期があるか不明




1998年、戸部新十郎作品『松永弾正』では松永久秀が鎖と体と釜でボンバーマン
松永弾正 下(ハードカバー版)、p.303

いよいよ総攻撃になった。佐久間・羽柴・丹羽の大群が迫ったとき、弾正は天守からそれを眺め、ゆるゆると百会(頭のてっぺん)に灸をすえた。中気封じのものであり、毎日の習慣だった。それより、名釜”平蜘蛛”を鎖で体に巻きつけ、金色の十字を握って一礼すれば、かねての合図に従い、火薬に火が放たれた。
轟然、爆発音が響いた。あの名代の天守閣が吹っ飛んだ。弾正も、名釜も、粉々になって砕け散ったはずである。



松永弾正〈下〉1998年
松永弾正〈下〉 (中公文庫) 2002年




2005年12月22日発売の漫画『へうげもの』で松永久秀は爆死

へうげもの(1) (モーニング KC)




2006年5月7日、NHK大河ドラマ『功名が辻』第18回で松永久秀は爆死
功名が辻 第18回|まんが栄養素[archive]

拳を握り締める一豊。
秀吉に対する怒りなのか、自分に対する怒りなのか、信長に対する怒りなのか。
そして、戦が始まり、松永は平蜘蛛を抱いて爆死。
一豊はまた戦に対する迷いが出てきて、五藤吉兵衛(武田鉄也)が説得。






【歴史】2007年、藤岡周三の著作で松永久秀は自刃、爆死なし

戦国ドキュメント 松永久秀の真実、p.112-113

久秀は、大軍の総攻撃に弓折れ、矢尽きて天主に火をかけ、自刃して果てた。六十八歳であった。
『大和志料』によると、信貴山城落城の後、筒井順慶が久秀の遺骸を引き取って、信貴山に近い達磨寺(奈良県北葛飾郡王子町本町二丁目)に葬ったことが書かれている。達磨寺本堂の西側墓地に、久秀の墓とされている高さ一メートルほどの古びた卵塔がある。


松永弾正の墓とされる卵塔は、風化が激しく、碑面の字が読めなくなっているが、寺記によると、「松永弾正久秀墓 天正五年十月十日」の文字があったという。



戦国ドキュメント松永久秀の真実




2009年、Yahoo!知恵袋により『日本史上初の爆死』が久秀に与えられる


jasonkodai2199さん
松永弾正久秀だと思います。

天正5年(1577年)10月10日、織田信忠率いる織田軍に攻められて大和信貴山城にて自害。家臣に命じておのれの首を火薬で粉砕させ、炎の中で微塵に化った。

または「平蜘蛛の茶釜」の火薬を詰め、その茶釜を抱いて松明で火を点け自爆したともいわれています。


日本史上初めて爆死した人物は誰ですか? - 松永弾正久秀だと思います... - Yahoo!知恵袋[archive]





2011年4月7日、NHKアニメ 「へうげもの」(ひょうげもの)で松永久秀は爆死
NHKアニメワールド 「へうげもの」[archive]

第一話「君は物のために死ねるか!?」 2011年4月7日(木) 放送
織田家の家臣で数奇をこよなく愛する古田左介は、主君信長から謀反をおこした松永久秀との交渉を命ぜられる。久秀が所有する大名物『平グモの茶釜』を渡せばすべてを許すというのが条件だ。戦火につつまれた信貴山城におもむいた左介は、武と数奇、それらのはざまに立ちながらもきぜんたる態度をつらぬく久秀の姿を目の当たりにする。だがその交渉はなかばで中断した。


へうげもの 話数限定 第一話 「君は物のために死ねるか!?」|無料動画 GYAO!|アニメ
14:10前後で、久秀は首から縄で火薬を詰めた茶釜を吊るして天守閣に立ち、導火線にロウソクで点火し爆死。




2012年6月13日、TBS系テレビ歴史バラエティーで松永久秀は爆死
世紀のワイドショー!ザ・今夜はヒストリー - Wikipedia

『世紀のワイドショー!ザ・今夜はヒストリー』(せいきのワイドショー! ザ・こんやはヒストリー)は、2011年4月18日から2012年8月29日まで、TBS系列で放送されていたハウフルス・TBS共同制作の歴史をテーマにした教養ドキュメンタリー・バラエティ番組である。


世紀のワイドショー!ザ・今夜はヒストリー」~日本の歴史・悪役10人~2012/6/13放送[archive]

⑥松永久秀(戦国時代、1510~1577年)


更に、信長から差し出せば命を助けると言われた天下に名だたる名茶器「平蜘蛛の茶釜」と一緒に爆死した。


日本の歴史 悪役10人~今夜はヒストリー2 4 - YouTube


映像内で、火薬を詰めた茶釜を鎖で首から下げてロウソクをかざし点火して天守閣を吹き飛ばした、という扱いです。




2014年3月23日、NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』で久秀は爆死
軍師官兵衛 - Wikipedia

『軍師官兵衛』(ぐんしかんべえ)は、2014年1月5日から12月21日まで放送されたNHK大河ドラマ第53作である。


放送回 放送日 サブタイトル 演出 紀行 視聴率 (関東) 視聴率(関西)
第12回 3月23日 人質松寿丸 大原拓 信貴山城跡(奈良県平群町) 松永久秀の墓(奈良県王寺町) 15.8% 17.9%


【軍師官兵衛】ミッキー・カーチス演じる松永久秀が「平蜘蛛」片手に爆死 | ロケTV[archive]

NHK連続テレビ小説「軍師官兵衛」第12回では、ミッキー・カーチス演じる松永久秀が、名器・平蜘蛛(ひらぐも)を片手に笑いながら爆死するという壮絶な最期が描かれました。


この場面。「軍師官兵衛」ドラマ上では「信長…このヒラグモは渡さぬ!はははははは!はーははははっ!」と久秀が不敵に笑いながら、平蜘蛛に爆薬を投入。天守、平蜘蛛もろとも吹き飛ぶという壮絶な最期でした。






2016年2月29日、BS-TBS『にっぽん!歴史鑑定 #47「信長が怖れた男~松永久秀」』で松永久秀は爆死
http://www.bs-tbs.co.jp/culture/kantei/episode/?mid=kantei[archive]

天正5年10月10月。
一人の戦国武将が、信貴山城で壮絶な爆死を遂げました。
その武将こそ…残虐非道!戦国一の大悪党と呼ばれた松永久秀です。








……どうやら、「天守閣が燃える」「茶釜”平蜘蛛”は行方不明になる」「松永久秀は死ぬ」という点だけ押さえてとても自由に創作されてますね。

太閤記関係の専門家、桑田忠親氏が1975年のテレビ番組で茶釜自爆にとられかねない表現、死後の1989年の書籍で茶釜と自爆を記述しているのは(特に首と茶釜と鎖の部分は)何の史料を元にしていたのか。気になるところです。

※NHK大河ドラマほか、本記事に未記入のものをご存知の方は教えてください







霊を召喚して戦わせる伝奇キャラクターとしては、信じられている姿で爆弾を操り、真の姿を語るイベントもできて、二度美味しいものとなったかもしれません。




松永久秀は名物「平蜘蛛」を打ち壊した?爆破した?本郷和人、ゆうきまさみ氏らが考える - Togetterまとめから要点を整理して並べ、いくつか追記しました。


2016-01-13 日本史探訪〈第15集〉の内容について追記。史料的根拠はともかく、どうも誤解を生む表現が番組にあったようです。
2016-01-14 タイトルを「松永久秀ボンバーマン説は1975年、南條範夫&桑田忠親が出演したNHK歴史番組かららしい」から「松永久秀ボンバーマン説は1975年、南條範夫&桑田忠親が出演したNHK歴史番組で発生した誤解から?」に修正します。
2016-01-14 当時の記録(多聞院日記)、明治時代(真書太閤記)、昭和時代初期(吉川英治の新書太閤記)を追加。
2016-01-15 悪霊、野望将軍、叛臣伝、新編 日本武将列伝、信長の野望合戦辞典、松永弾正、戦国ドキュメント 松永久秀の真実 について追記しました。
2016-01-16 武将伝 戦国の史話を追加。信長公記と川角太閤記へのリンク、一個人ブログ(橋場日月氏の記事)引用とリンクを追加。
2016-01-17 伊賀忍法帖の原文、大かうさまくんきのうち、桑田親忠の著書を2つ追加。司馬遼太郎や山田風太郎の位置変更。
2016-01-20 1967年「茶道の歴史」、1989年「下天は夢か」を追加。
2016-01-23 『へうげもの』、『軍師官兵衛』を追加。
2016-01-25 『功名が辻』大河ドラマを追加。
2016-03-05 川角太閤記を追加。中山義秀、井上靖、海音寺潮五郎、八尋舜右、澤田ふじ子、黒部亨の各作品を追加しました。
2016-03-26 まとめ表v1.2画像を追加。
2016-04-05 まとめ表v1.4 多聞院日記を切腹に修正。ボンバーマンそのものについても記述。多聞院日記と信長公記の本文もいれておきます。
2016-04-24 久秀の切腹話として、兼見卿記と備前老人物語も追加しておきます。
2016-04-30 兼見卿記と備前老人物語をまとめ表v1.5へ追加。
2016-08-06 2月にBS-TBSで久秀爆死が放送されていたので追加。
2016-08-25 記事冒頭を更新しました。
2016-09-21 茶釜の行方、結論部分から削除しました。
2017-01-22 明治時代の例を3つ追加しました。
2017-02-09 「日本史上初の自爆」はYahoo!知恵袋だったため追記。
関連記事
スポンサーサイト

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術



コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://parasiteeve2.blog65.fc2.com/tb.php/1252-67cac63a
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。