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Betelgeuse's Diary

「バイク」と「無法者」の関係、マーロン・ブランドと尾崎豊

1947年の小さな事件が1954年のマーロン・ブランド主演の映画となり、オートバイと不良青年が結び付く。
1980年ごろに14歳の尾崎豊が盗んだ「バイク」はヤマハの原付(スクーター)。


アメリカの小さな町で毎年オートバイ乗りたちが集まるイベントがあり、第二次世界大戦で中止されていました。
戦争が終わり1947年イベントを再開したところ、ジャンクパーツを組む技術を持った軍隊帰りたちが参加し想像以上の混雑となり、酔っ払いたちを警官7人では静止しきれなくなりました。雑誌は酔っ払いの足元に酒瓶を転がすやらせ写真?を掲載するなど、オートバイ乗りのイメージダウンを行いました。
1948年に行儀の良いオートバイ乗りたちは「あれは1%程度の人にすぎない」と無法者との区別を図りましたが、逆に俺たち1%と自称する「1%er(ワンパーセンター)」が発生しました。
1954年にこの暴動をもとに暴走族の抗争テーマでマーロン・ブランドが主演した映画がつくられ、アウトローとバイクが世界中で結び付きます。


1970年代末、日本では防犯性に乏しいスクーターが増えました。14歳の尾崎豊はスクーター(ヤマハ製「パッソル」)を盗んで走り、この体験が1983年大ヒット曲の歌詞「盗んだバイクで走り出す」になります。
やがて、この歌詞の「バイク」は中型~大型バイクだと誤解されるようになりました。

1947年 ホリスター暴動
ホリスター (カリフォルニア州) - Wikipedia
Hollister riot - Wikipedia, the free encyclopedia
The Hollister Riot (ホリスターの騒動): The Wild Oneの脚本の元となった出来事 | 私のリーバイス
上記の記事で「ホリスター暴動」のWikipedia翻訳が読めます。

"大きな混乱なだけだった。ただモーターサイクルを乗り回したり大騒ぎをしているだけで、実際に危害を及ぼす事はなにもしていない。”との目撃者の証言もありました。


街の運営のメンバーは、「幸運な事に、甚大な損害はなかったと思われます。人騒がせなバイク乗り達は、街よりも自分たちを傷つけました。」と語っています。


Life誌に掲載された「バイク乗りの足元に大量の空の酒瓶」写真は

その一つがこの写真の後ろに立っている人物、Gus Deserpaは騒動の後のインタビューで、「二人の男がボトルを集めて路上に散らしているのを見た。

それから、彼らはそのボトルの破片の集まりのところにモーターサイクルを置いた。それからしばらくして、酔っぱらった男がバーから出てきたところを彼らが呼び止めてモーターサイクルに乗せて写真を撮り始めた。」と語っています。




ハーレーM・Cの方のレザーベストによく「1%ER WING」っていうパッチを付けているのを見かけますが、この「1%ER WING」っていう意味が分かりませんので、知っている方、どうか教えて下さい。 - Yahoo!知恵袋

その中で、アメリカバイク協会は「バイク乗りの中で悪さをする
「アウトローなバイカー」は、バイク乗りの1%に過ぎない」と説明し、
バイクに対する悪いイメージを払拭しようとました。

しかし、反社会的なバイカーと自覚する人たちは
その説明を逆手にとって「俺たちゃ悪人だぜ」とアピールし、「1%er」と
名乗るようになりました。



「AMA」ワッペン(American Motorcycle Association(アメリカのバイク乗りの協会)、秩序正しいバイク乗りのアピール)と「1%er」ワッペン(無法者で独自の誇りがあるアピール)を同時に付けているバイク乗りがいて、日本ではもはやその意味や経緯は失われているという話がありました。
1%er(ワンパーセンター)と言う言葉、「WILD ONE」とホリスター暴動 : PEEP SHOW GALLERY

相反するものが一緒にあることがつらいんじゃないんです。好きにすればいいんです。
でも、自分の店の客と自分が同じ価値観を共有できてないことが凄く、、さびしかったんです。



1954年 映画 『乱暴者(あばれもの)』
映画 The Wild One(邦題『乱暴者(あばれもの)』)が公開される。

マーロン・ブランドがかっこいい映画。

Marlon Brando ~ The Wild One(1953) - YouTube




日本での歴史はバイク好きがカミナリ族(レース中心)、武闘派(目立つ・抗争)、それらがまとめて「暴走族」と呼ばれるようになる、バイクの普及で少年たちが乗るようになる、学校の反発と管理「3ない運動」、など。


1980年ごろ
尾崎豊が14歳のときに盗んだバイクは「ヤマハ パッソル」、女性向けにCM。
YAMAHAソフトバイク パッソル&パッソーラ のCM

♪足音美しーくー
ステップが平らですから、靴を揃えて乗れるんですよ。
美しく乗りたい。ヤマハ ソフトバイク。




私は、優しいパッソルが、好き。
♪街は~小さな小さなク・ル・マがいい~♪
YAMAHAソフトバイク、勢ぞろい。


映像
1977 YAMAHA PASSOl 50cc パッソル - YouTube



当時の中学生、中学生だった人、にとっては
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/music/4600/1094224747/[archive]

   終  わ  ら  な  い  1 5  の  夜  (会報より)
                               (映画監督  小松壮一朗)


私生活や思想、価値観まで一律に管理しようとした校則、偏差値教育のキョダイナプレッシャーが、当時の少年少女たちを無軌道な『暴走』へと駆り立てたのだと思う。
今ではとても恥ずかしくなるようなツッパリファッションに身を固め、学習塾帰りに気晴らしの万引きをし、深夜の自販機コーナーにたむろした。そしてまだハンドロックのなかったパッソルという原付バイクを多量に盗んでは乗り捨てていた。


興味を持って聴いたアルバムのA面最後の曲『15の夜』に触れた時、金属バットで殴られたような衝撃を
受けた。『何でこいつはこんなに俺たちの思いを歌に出来るんだろう』。
そこには答えの出ぬまま過ごした自分達の十代の気持ちが、そのままにあった。



尾崎豊の「盗んだバイクで走り出す」のバイク、しょぼい原付きだった

Wikipediaを見ると、このヤマハ・パッソルはたぶん今は売られていないのだと思われます。ヤマハ・パッソルの発売は1977年ですが、コンセプトはそのままで発売された1982年10月にパッソルⅡは消滅したと書かれています。


価格については、"値引き競争は1台3万円を下回るところまで進み、それどころか4台まとめて10万円だとか、高級自転車のおまけにスクーターなどという信じがたいダンピングまで発生した"とも。先にあった盗まれてもいいや…という感覚は、この熾烈な争いの時代のものなのかもしれません。


 1983年、"1月末、年頭の記者会見でヤマハ社長、小池はHY戦争の敗北を宣言し"ており、これが終結の時期。一方、尾崎豊さんの15の夜は1983年12月1日のリリースですが、14歳のときの話がモチーフです(15の夜なのに15歳じゃなかった模様)。で、尾崎豊さんは1965年11月29日生まれですので、14歳の期間は1979年11月29日~1980年11月28日でした。あら、HY戦争の最初の頃…まだ価格が下がりきらないうちの話でした。



1983年に尾崎豊の『15の夜』を聴いた人たちにとって、原付を盗む中学生は同時代の親しみのあるものだったようです。






[ヤマハ] パッソル正規サービスマニュアル 2E9



「1%er」(アウトローを名乗るバイク乗り)も
「盗んだバイクで走り出す」(息苦しさに近所の原付を盗む中学生)も、
当時の背景知識を説明されないと、
同時代の人たちとはまったく違ったものを後の時代の人は見てしまうようです。
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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術



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