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【伊達政宗・眼帯化への道】右目は伝承でなぜ飛び出したことになったか

1行で:政宗の右脇腹が腫れて手術した話が、人々が語り継ぐうちに眼球が飛び出す話に変わっていったのでは?

伊達政宗の眼帯は1942年の映画で初登場し、1987年にNHK大河ドラマで半歴史化>の記事で、政宗のイメージが改変されていることをまとめてきました。

単なる事実としては、若い政宗が天然痘にかかって後遺症として右目が失明しただけですが、江戸時代の半ばには歴史書『性山公治家記録(しょうざんこうちけきろく)』でも逸話集『明良洪範(めいりょうこうはん)』でも、「右目が飛び出してきて片倉小十郎景綱がかかわった手術が行われた」となっています。

さらに、『明良洪範』では戦で目に刺さった矢を抜いた平安時代の人・鎌倉景政の話が混ざり、第二次世界大戦中の映画では矢が刺さるシーンと治療で眼帯を付けたシーンが描かれ、昭和から平成にかけて【伊達政宗は兜と眼帯】姿となっていきました。

なぜ、目が飛び出したことになったのか。
政宗が話した内容を記録した『木村宇右衛門覚書(きむらうえもんおぼえがき)』では、伊達政宗が片倉景綱と共に、政宗の腫れあがった右脇腹を外科治療した話があります。

『木村宇右衛門覚書』の政宗の右脇腹手術話が、伝わっていくうちに『性山公治家記録』『明良洪範』での政宗目玉飛び出し話となった可能性があります。

ここではその共通点を見ていきたいと思います。

「政宗の目玉飛び出し」話の元ネタの可能性? 「政宗の右脇手術」話
木村宇右衛門覚書 伊達政宗が片倉小十郎景綱とともに右わき腹を治療した話1
木村宇右衛門覚書 伊達政宗が片倉小十郎景綱とともに右わき腹を治療した話2
出典:伊達政宗言行録―木村宇右衛門覚書(amazon)

『木村宇右衛門覚書』65 より
・伊達政宗が語った昔話。
・伊達政宗は若いころ右のわき腹が腫れ、横になれなくなり、不眠状態だった。
・伊達政宗の右わき腹に、各種の治療は効かなかった。
・伊達政宗は目に見える敵なら討てるのに…と悔しがった。
・伊達政宗は右手で腫れている部分をつかみ、最終手段として脇差で突く方法を思いついた。
・伊達政宗は脇差を外科手術に使うと、病苦で切腹自殺をやろうとしてる扱いにされそうだと、思いとどまった。
・伊達政宗はかわりに適当な金属を焼いて手術用具に使うことを思いつき、片倉景綱に相談した。
・片倉景綱は手術用具として馬屋にある丸金を焼いて持ってきて、火鉢で再加熱した。
・片倉景綱は自分の右ももに濡れた手ぬぐいを置き、右ももに丸金が刺さるかを試した。
・片倉景綱は政宗への手術を申し出た。刺されている間、政宗は景綱に寄りかかった。
・片倉景綱が丸金を政宗から抜くと、丸金は3寸ほど黒く焦げていて、政宗の傷跡からは煙が出た。
・伊達政宗はめまいがして物が二重三重にブレて見え、気分が悪くなり倒れた。
・片倉景綱は伊達政宗に茶碗を差し出して水を飲むように勧めた。
・伊達政宗は水を飲むのは片倉景綱に弱みを見せるような気がして断った。
・片倉景綱に手で傷跡を押さえてもらい、さらに湿らせた手ぬぐいを巻いて詰めてもらった。
・伊達政宗は痛みでのけぞる。
・伊達政宗は障子を開けて外に出て、手水まで行き、頭に水を被ってようやく気分がクリアに。
・伊達政宗は庭から建物を見て、隣室で様子を伺っている人たちに気づいた。
・伊達政宗は「今日のお灸は良かった!」と大口を叩く。
・伊達政宗が小便のためにかがむと、下着は大量出血で真っ赤だったことに気づいた。
・片倉景綱が「お灸の後には食べるもの」とお粥を持ってきた。伊達政宗は食欲は無かったが食べた。
・伊達政宗は眠気を覚えて20日以上ぶりに物にもたれた姿勢で4時間熟睡。食欲が出て粥を食べ、さらに熟睡。
・伊達政宗は起き上がれず、手術から5日間ほど寝たきり。
・伊達政宗の脇の傷は40日間ぐらいで治癒。治るまでは腫れて、膿、血、白い塊が際限なく出た。
・この話をしている晩年の伊達政宗が現在の傷跡を測ってみると、横1寸4分、縦2寸8分だった。
・片倉景綱が自分自身につけた右ももの傷は70日程度で治ったが、その後も「馬に乗るたびに引きつる感覚がある」と景綱は政宗に話していた。


江戸時代の「政宗の目玉飛び出し」話その1、明良洪範の場合
内外教訓物語. 人之巻(1915)での伊達政宗と片倉小十郎。明良洪範続編巻二の内容を読みやすく書いていて、このイラスト付き。
出典:内外教訓物語. 人之巻
伊達政宗に片倉小十郎が目を切るよう進言・明良洪範 続編巻二
出典:明良洪範 続編巻二

・伊達政宗の目は飛び出していた。
・片倉景綱が切腹も覚悟のうえで切るように進言。
・伊達政宗は自分で目を切り落とすと、大量出血し気が遠くなった。
・片倉景綱は目に矢が刺さったまま戦った鎌倉景政の故事を出して、この程度で弱るとは不甲斐ないと言った。
・伊達政宗は気を持ち直した。このことを伊達政宗は不覚だったと何度も語っていた。

『木村宇右衛門覚書』と『明良洪範』では、伊達政宗と片倉小十郎景綱がセットになった話、政宗が自分で刃物を使い手術しようとしたこと、大量出血したこと、政宗の気が遠くなったこと、政宗が景綱に弱みを見せる・見せないという話が共通しています。




江戸時代の「政宗の目玉飛び出し」話その2、性山公治家記録の場合
伊達政宗卿伝記史料より、性山公治家記録での伊達政宗失明のいきさつ
出典:伊達政宗卿伝記史料(藩祖伊達政宗公顕彰会)1938年

・伊達政宗の失明した目が、やがて肉が盛り上がってきて飛び出してきた。
・伊達政宗は目の飛び出た部分を衝き潰すよう側近に命じたが、だれもやりたがらなかった。
・片倉景綱が小刀で衝き潰したという言い伝えがある。

『木村宇右衛門覚書』と『性山公治家記録』では、伊達政宗と片倉小十郎景綱がセットになった話、伊達政宗の肉体の一部が盛り上がっていたこと、手術行為の内容が「衝き潰す」ものだったこと、片倉景綱が執刀したことが共通しています。




伊達政宗じいさんが語った脇腹手術思い出話を、伊達家中の人々が語り継ぎ、そのかけらが『明良洪範』『性山公治家記録』に収録されたと仮定してみると。
腹がなぜ目になってしまうのかはともかく、どちらも核心の部分は意外と残っているように思えます。

もし、あと一つぐらい政宗&景綱の外科手術話の資料が残っているなら、さらにはっきりしそうです。
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